TONY LaRussaと愉快な仲間たち

Tony LaRussa
(Anthony LaRussa,Jr.)

1944年10月4日フロリダ州タンパ生まれ

 1962年6月6日、ジェファーソン高校卒業前夜、内野手としてカンザスシティ・アスレティックス(現オークランド・アスレティックス)と$5000で契約。次のシーズンに、18歳ではやくもメジャーリーグに昇格し34ゲーム出場した。これはティーンエイジャーでショートを守ったメジャーリーグ歴史上最初の選手という記録で、後はロビン・ヨントとアレックス・ロドリゲスである。が、オフに帰郷したとき友人たちとのソフトボールの試合に遅れ、ウォーミングアップなしでいきなり打球を処理し送球したせいで腕を故障。以後、故障をかかえてマイナーリーグ生活を余儀なくされた。1962年から1977年までの現役選手生活でのメジャーリーグでのトータル6年間で132ゲーム出場、通算打率.199、ホームランなしの記録は、名将監督の唯一の愛嬌?、また名選手名監督ならずを象徴するものとして有名である。
しかし契約の際、球団から大学進学時の奨学金提供の一項があり、また母上との約束もあってオフシーズンにはタンパ大学、南フロリダ大学へ通い、7年かかってindustrial managementの学位を取得。さらにフロリダ州立大学のロウ・スクール(法学大学院)へ進学し5年かかって卒業、1980年、弁護士資格を取得(たぶん2度目の司法試験)。
 ベースボールのコーチ、監督としてのキャリアは、1977年、セントルイス・カーディナルスのAAでプレイヤー兼コーチになり、78年にはシカゴ・ホワイトソックスのコーチに抜擢されるが、マイナーリーグで経験を積みたいと志願、ノックスビル、アイオワと、ホワイトソックスの当時のマイナーチームの監督として好成績をおさめた後、1979年8月3日シカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。翌年、弁護士資格を取得し、一応弁護士事務所でデスクワークの仕事についたが、1週間ほどで春のキャンプが始まり、弁護士の仕事はそれっきりになったが、メジャーリーグ史上5人目の弁護士資格を持つ監督が誕生したのだった。
 1983年、ホワイトソックスを地区優勝に導き(プレイオフでボルチモア・オリオールズに敗退)、マネージャーオブザイヤー受賞。1986年6月20日、成績不振でホワイトソックスを解雇されるも、約3週間後の7月7日、同じ西地区のオークランド・アスレティックスの監督に就任。以後、88,89,90,92年と4回の地区優勝、3年連続リーグ優勝、ワールドチャンピオン1回、「Almost Dynasty」「State of the Art」と呼ばれたほどの素晴らしいチームを作り上げ、オールスターゲームのアメリカン・リーグ監督として4連勝、83、88、92、02年のマネージャーオブザイヤー受賞4回の輝かしい経歴を誇る。
 1994年、オークランド・アスレティックスと再契約するが、翌年オーナーが代わったため、オーナーシップ変更の際は契約を見なおすという契約書の一項により、契約を再考することになった。前年もこのときも、ほぼすべての球団からオファーがあり、家族との休暇旅行先のヨーロッパにまで電話がかかってきたと言う。最終選考にはカーディナルスとボストン・レッドソックスが残ったが、結局1995年秋オークランドを去り、セントルイス・カーディナルスと契約。
翌1996年と2000年、2002年にカーディナルスをナショナル・リーグ、セントラル地区優勝に導いた(NLCSでブレ―ブス,メッツ、ジャイアンツに敗退)。また、2001年のシーズンもナショナルリーグのワイルドカードとしてプレイオフ出場、DSでダイアモンドバックスに惜敗したが、オフにはカーディナルスとの契約を延長した。2003年9月10日、メジャーリーグ監督として8人目の2000勝を達成、在任期間最長の監督でもある。04年ダントツ首位を独走してセントラル・ディヴィジョン優勝、DSではドジャースを破ってCSではアストロズに競り勝ち、久々にワールドシリーズ出場を決めたが、レッドソックスにあっさり敗れ去ってしまった・・・。尚、カーディナルスとの契約は延長された。05年5月、カーディナルスを率いて822勝をマーク、80年代の名監督Whitey Herzogの記録を抜いてしまわれ、8月にはスパーキー・アンダーソンを抜き、歴代単独3位となり、現役監督最多勝利数も更新中、05年のシーズンも早々とディヴィジョン優勝を決め、DSでパドレスに勝ったが、CSでアストロズに惜敗した。06年、最後に例によってケガ人続出でもたついたが、83勝78敗の最低ラインでディヴィジョン優勝。彼のチームには珍しく、プレイオフでの評価が低かったにもかかわらず、DSでパドレスに3−1で勝ち、CSも苦手だったはずのメッツに、もつれつつも4−3で勝って、ナショナルリーグ優勝、ワールドシリーズ進出を果たした。ワールドシリーズでは、1年前、彼のスカウトからタイガース監督に就任した親友、ジム・リーランドとの対決、そして4勝1敗でカーディナルスを83年以来、24年ぶりのチャンピオンに導くとは、スパーキー・アンダーソンに次いで2人目の両リーグワールドチャンピオン監督になるなんて、ワールドシリーズ優勝した年にマネージャーオブザイヤーに1票も入らなかった初の監督になるなんて、誰が予測したであろうか・・・。尚、引退、なんてことないだろうなあ、と一抹の不安を抱いていたところ、いや、まだまだ、という記事が載っていた。当たり前だが、ほっと胸をなでおろした私であった。ポストシーズン勝因のひとつは、レギュラーシーズンの最終戦に、彼がエースのクリス・カーペンター投手を温存し、ポストシーズン開幕に備えたこと、と言われている。
 
 私見ではあるが、96年のシーズン初頭、BSの中継でカーディナルスのゲームを見てびっくり。1塁コーチ、3塁コーチ、投手コーチがオークランド時代と同じなら、選手たちもオークランド系、セントルイス系、フリーエージェント系で構成されていた。監督交代といえば、1、2人の気心の知れたコーチを連れ、2、3人昔馴染みの選手を採用するのが常だが、ラルーサ監督の場合、セントルイス・アスレティックスとからかわれたほどなのに、さらに翌年、元選手のカーニ―・ランスフォードやデイブ・パーカー、以前の3塁コーチで、フロリダ・マーリンズを解雇されたレネ・ラッチマンをコーチ陣に加え、97年にはマーク・マグワイアをトレードで獲得し、98年には、オークランド・アスレティックスのトレーナーだったビル・ワインバーグまで迎えたほどなのである。
 ということで彼の人脈をたどり、多くのメジャー・リーガーに「一度はラルーサのもとで野球をやりたい」、ライバルのミネソタ・ツインズのトム・ケリー前監督には「ミスター・ラルーサは、魔術師だ」と言われ、メディアには「Baseball Genius」と称される彼の秘密に迫る!?というのが、このコーナーの目的である。
尚、オフシーズンには夫人と共に、アメリカ原住民支援運動や、財団を作り動物愛護のための運動をしておられる。酒、タバコなしのヴェジタリアンである。また、彼の監督術は、「Men At Work(野球術)」「3 Nights in August」2冊のベストセラー本で取り上げられている。

His Coaches
※は元コーチ

Dave Duncan
 

 ホワイトソックス時代の86年から彼の投手コーチを務める、文字通りの右腕。LaRussa & Duncan または、Tony & Daveによって〜、選手起用などが行なわれているという解説がされる。 Dave Stewart、Bob Welch、Todd Stottlemyre、Kent Bottenfirld、Andy Bennes、Daryl Kyleなど、投手の再生に定評がある。なかでも、Dennis Eckersleyをストッパーとして再生し、大成功をおさめたことが評価されているが、「あれは別の抑え候補の投手が故障したからで、自分の手柄じゃない」と語っていた。アスレティックスのマイナーなどでの彼のチームメイトで、現役時代は捕手、ティム・マッカーバーの7歳年下だそう。あるゲームでそろそろ投手交代の時期かとベンチが映ったとき、彼がダンカンコーチを振り返り、ちらっと目が合っただけで、ダンカンはベンチから飛び出してマウンドへ行った。ツーカーの仲らしい。メジャーリーグトップクラスの投手コ―チなので、当然、監督要請の声もあるらしいが、彼が手放さずダンカンもその気はないらしい。96年のシーズン、カーディナルスの選手達の年棒の合計は、メジャーリーグ4位くらい?だったのだが、GMは、「コーチ陣の年棒も入れると、メジャーリーグトップだ」とコメントしていたので、はっきりした金額は不明だが、おそらくメジャーリーグの投手コーチとして最高額の年棒ではないかと思う。ベンチでいつも手放さない分厚いファイルをアップで見ると、対戦チームのひとりひとりの選手についての克明なデータが記されているようであった。私見ではあるが、今後は新人投手を大投手に育てるという課題の達成をお願いしたい。ダンカンコーチのせいだけではないだろうけど、アスレティックスでは、トッド・ヴァンパペル投手をはじめ、新人投手が育たなかった。カーディナルスの若手の逸材、リック・アンキール、バド・スミス投手の成長に期待していたのだが、05年、クリス・カーペンター投手が20勝をあげてサイヤング賞受賞、06年のシーズンもエースとして活躍、06年7月に獲得したはジェフ・ウィ―バー投手が、ポストシーズンで大活躍、峠を過ぎた投手の再生はもはやお家芸となっている。
97年のシーズン、スカパーでのゲーム中継で、カーディナルスのCMをたった一度だけ見たことがあるのだが、キャッチャーをダンク・タンクに座らせ、ターゲットに投げてコントロールを養うカーディナルスの投手陣、「ちゃんと投げないと、マイナー行きだぞ」と叱咤し、リポーターに「これが、ダンカンスタイルです」と胸を張る、意外にお茶目なダンカンコーチが主役だった・・・。
63年、カンザスシティー・アスレティックスと契約、64年に捕手として初昇格するも、66年から彼がブレーブスにトレードされる71年まで、マイナーのモデストでチームメイト、76年にオリオールズで引退、80年にインディアンス、2年後にマリナーズで投手コーチを務め、クビになった後、彼がホワイトソックスに招聘した。捕手出身の名投手コーチというのも、異例だと思う。
尚、ダンカンコーチの息子さんは2人がプロ入りした。05年9月、Chrisの方がカーディナルスでメジャー昇格し、06年のシーズンも長距離バッターとして大活躍、優勝に貢献した。クリス君は、かなりでかい体格で、まるでフランケンシュタインのような、独特の歩き方であるが、よく見ると、ダンカンコーチそっくりの姿勢なんである・・・。

Dave McKay

 1985〜95年までオークランド・アスレティックス、96年〜セントルイス・カーディナルスの1塁コーチである。彼のセントルイス持ち込みコーチのひとりで、バッティング投手も務めているらしいが、2000年のシーズン途中に姿が見えないので心配していると、どうも肩を傷めて手術、DL入り?していたらしい。90年頃のBSの中継で西田善夫アナが思わず、「パンチョさん、あれは誰ですか?今すぐにでも守備につけそうな?」と聞くと、即座に「彼はもとアスレティックスの内野手」という答えが返ってきていた。最近グレイヘアが目立ってきたが、40代?で、かなりハンサム、スリムなスタイルも現役選手と変わらないのは相変わらずである。トロント・ブルージェイズ創設時のレギュラー選手でもあり、メジャーリーグ初打席にホームランを打ったという。2001年、ゲイリー・カーターと共にカナダの野球殿堂入りを果たした。
2001年、9月11日のニューヨークとワシントンへのテロ攻撃事件後、ミルウォーキーでの3ゲームが中止になり、6時間かけてセントルイスにバスで帰ってくる途中、休憩エリアでマッケイコーチは小さい男の子に「あそこにいるの、誰か知ってる?マグワイアだよ」と話しかけると、男の子は「うそだ〜」と信じないので、「本人に聞けば?」で、男の子がマグワイアに「あんたの名前は?」と聞くと、マグワイアは「スティ-ブ」と答えたので、「ほら〜、やっぱり」。でも、他のお客さんがマグワイアにサインしてもらってるのをみて男の子もサインしてもらったけど、気の毒にその子は「スティ-ブ」のサインだと思ってるだろうと、セントルイスの新聞のサイトに載っていた。よくやるよ。
尚、02年、マッケイコーチの息子さんのCodyがアスレティックスに昇格、初のカナダ生まれの親子2代のメジャーリーガーとなった。04年、Cody君はカーディナルス入り、控えの捕手としてマイナーと行き来していたが、残念ながら05年解雇されてしまった。

Dave Parker

 1951年6月9日、ミシガン州ジャクソン生まれ。1988年〜89年、オークランド・アスレティックスの外野手、DH。1998年、セントルイス・カーディナルスで打撃コーチを務めた。
4番打者、チームリーダーとして89年のワールドシリーズ優勝に貢献したが、彼はマグワイアに4番を任せられるとして、パーカーは翌年フリーエージェントでミルウォーキー・ブリュワーズに去った、が、マグワイアはスランプになり全然だめ。結局は4番DHの穴埋めに90年後半の緊急トレードで、ハロルド・ベインズを獲得したのだった。しかしワールドシリーズではシンシナティ・レッズにSWEEPされてしまい、陽気なムードメーカーでもあったデイヴ・パーカーの放出が原因と批判された。尚、相手のレッズでアスレティックスから2勝をあげ、ワールドシリーズMVPを獲得したホゼ・リマ投手は、87年オフにアスレティックスからパーカーとの交換トレードでレッズに移った選手だったというのは、なんとも皮肉なことであった。
 73年、ピッツバ―グ・パイレーツでデビュー、78年にはナショナル・リーグMVPを獲得、70年代半ばのパイレーツ黄金時代の立役者のひとりとして有名である。現在は当たり前のメジャーリーガーのファッションであるピアスは、じつはデイヴ・パーカーが最初に始めたのだそう。

Carney Lansford

 1957年2月7日カリフォルニア州サンノゼ生まれ。83年〜92年までオークランド・アスレティックスの内野手。チームリーダー的存在で彼の信任も厚く、3塁手、2番バッターとして欠かせない存在として、チームの優勝に多大な貢献をした。90年のオフシーズンにスノーモービルの事故で両足を骨折、91年のシーズンを棒に振り、またチームも彼の代わりの3塁手がどうしても見つからず優勝を逃したことで、すごい選手だったということが身に染みてわかった。92年のALCSでトロント・ブルージェイズと対戦した時の話、ゲーム後半にバントを命じられたカーニ―は、あっさりと成功させてベンチに戻ってきたのだが、カーニ―自身のポストシーズン連続ヒット記録は途絶えてしまった。彼はカーニーに歩み寄り、一言声をかけていたが、カーニ―はわかってるよと言う感じで、振り向きもせずに軽くうなずいていた(信頼関係を感じた一瞬だった)。で、ALCS敗退でシーズンは終わり、カーニ―は引退を宣言したのだった。95年、チームリーダーだったデイヴ・スチュワートの引退後、チームリーダー不在を心配していると、彼はカーニ―をコーチとして雇っていた。「Angels In The Outfirld」のテクニカル・アドバイザー、敵役として出演もしている。98年には、セントルイス・カーディナルスのベンチコーチとして雇われ、マーク・マグワイアのホームラン記録更新のバックアップに一役買ったひとりだと想像している。マグワイアがシーズン最終日に70本目のホームランを打ったとき、マグワイアを迎えに真っ先にベンチから飛び出したのが、カーニ―だった。99年、アナハイム・エンジェルスのマイナーチームの監督に就任した。
1978年カリフォルニア・エンジェルスでメジャーリーグデビュー、81年〜82年までボストン・レッドソックス、81年には.336で首位打者になったこともある。チャーリー・ラウ&W・リニヤックスタイルの打撃フォームは独特で、まさに打撃職人という感じだった。

Ron Hassey
 

 1953年2月27日アリゾナ州ツーソン生まれ。1988〜90年までオークランド・アスレティックスの捕手。テリー・スタインバックに次ぐ2番手捕手だったが、ボブ・ウェルチとバッテリーを組んだ時、BSの中継で三原渡アナが、「池井さん、?年の日米大学野球のバッテリーですよ」と懐かしそうに言い、またハッシ―が、ヘルメットを捨ててキャッチャーフライを追っているとき、ふさふさした長髪なのにてっぺんだけが薄いので、「アリゾナ大学出身でさっそうと登場したハッシーも、ちょっとさびしくなりましたねぇ」とため息をついていたことがある。
1979年、クリーブランド・インディアンスでメジャーリーグ昇格、84年9月、シカゴ・カブスへトレード、12月にはヤンキ―スにトレード、85年12月にシカゴ・ホワイトソックスにトレードされ、86年にはまたヤンキ―スからホワイトソックスへ目まぐるしくトレードされているが、とにかく一時期は彼のホワイトソックスにいたはずである。87年にはフリーエージェントでオークランド・アスレティックスと契約。引退後は93〜95年までコロラド・ロッキーズのコーチ、96年にはセントルイス・カーディナルスのコーチを務め、現在はアリゾナ・ダイアモンドバックスのマイナーリーグでフィールドコーディネーターと、打撃、捕手コーディネーターも務めている(03年まで)。最近、なんと81年にはクリーブランド・インディアンスでLenny Barker、91年にはエル・プレジデンテこと、Dennis Martinezのパーフェクトゲームの捕手を務めたことを知ったのであった。ちなみにメジャーリーグの長い歴史上、パーフェクト・ゲームは16回達成されている。2004年〜シアトル・マリナーズのベンチコーチである。

Rene Lachemann

 1945年5月4日ロスアンジェルス生まれ。兄のマーセルはエンジェルスの監督を務めたこともあり、現在ロッキーズの投手コーチ、弟のビリーもマイナーリーグのチームで打撃コーチを務める、ラッチマン3兄弟である。
86〜92年までアスレティックスのコーチ、90年からはジム・ラフィーバーの後任として3塁コーチを務めたのが評価され、93年エクスパンションの新生フロリダ・マーリンズの初代監督に就任。しかし96年解雇後、再び彼に呼ばれて97〜99年までカーディナルスの3塁コーチを務めたが、「家族のいるアリゾナでキャンプをするチームへ行きたい」と2000年にカブス、03年からはシアトル・マリナーズのベンチコーチになった。アスレティックス、カーディナルスの3塁コーチ時代は、カンセコ、マグワイアの打席になると、「命が惜しいからね」と3塁コーチスボックスを大きく離れて立っていた。今年のシーズン初めのベースボール雑誌に、ラッチマンが彼と選手達とを取り持つ、冗談好きの明るい存在だったのに〜、と載っていた。子供の頃は、ドジャースのバットボーイをしていたこともあるそうで、ドジャース対マーリンズ戦でダッグアウトが映ると、「はい、もとうちのバットボーイです」とヴィン・スカリーアナが紹介していた。現役時代はカンザスシティ・アスレティックスなどのマイナーで捕手と内野手
を務めた。05年から再びアスレティックスの1塁ベースコーチである。


Jim Lefebvre

 1943年1月7日、カリフォルニア州イングルウッド生まれ。60年代のLA・ドジャースの有名な内野手が全員スイッチヒッターのひとりで、1965年のナショナルリーグのルーキーオブザイヤーを獲得。「MEN AT WORK」のなかで、日本シリーズ優勝とワールドシリーズ優勝を経験した、2人目の選手だと自慢していた(ちなみに、3人目はダン・グラッデン)。パンチョ伊東氏の解説によれば、ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)で日本チャンピオンになり、1977年、アメリカへ帰国するときに「絶対にメジャーリーグの監督になる」と言ったとか。で、ドジャースのマイナーでコーチをしていたが、79年?にLAの郊外で、ラソーダ監督と取っ組み合いのけんかをした後、サンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーのコーチなどを務めているところを見込まれて、アスレティックスで87〜89まで打撃及び3塁コーチを務め、ホゼ・カンセコ、マーク・マグワイアを育てたことが評価され、90年シアトル・マリナーズの監督に就任。次いでシカゴ・カブスの監督を務めるが、解雇された後、94年に再びアスレティックスの打撃コーチに帰任した。99年のシーズン終わり頃、ミルウォーキー・ブリュワーズの代理監督を務めていたときに、メンバー表交換の際、彼に何か言って大笑いしていた。仲が良いらしい。尚、アスレティックスでのカンセコ、マグワイア、マリナーズでケン・グリフィーjr.カブスでサミー・ソーサに関わり、彼の行くところホームラン・バッターが生まれている?方でもある。03年11月、オリンピック予選で中国チームの監督として来日、中国版ホームラン・バッターに期待がかかるところである。05年からのアジア選手権でも、中国チームの監督を務めておられるが、韓国や日本のチームと較べて実戦が少ない、ラフィーバー監督のコネで日本やアメリカと練習試合を行なっていると、あちこちの新聞や雑誌に同じことが書いてあったのであった。

His Scout
Jim Leyland

 ホワイトソックス時代に彼の3塁コーチを務めたのが評価され、86年ピッツバーグ・パイレーツの監督に就任。地区優勝3回、90、92年にマネージャーオブザイヤーを獲得後、97年フロリダ・マーリンズの監督となり、97年、就任1年目で初のワイルドカード進出チームとしてワールドシリーズ優勝。99年コロラド・ロッキーズの監督になるも、引退。しかしまだ仕事がやれると彼に請われて、2000年、カーディナルスのメジャーリーグ・スカウトに就任した。
  彼とリーランドは、アスレティックスの監督とパイレーツの監督という立場にあるときも、常に1週間に一度の電話連絡はかかさなかったというが、1992年、パイレーツが最後のNLCSの最終戦の土壇場でブレ−ブスのフランシスコ・キャブレラのさよならヒットで破れたとき、意気消沈したリーランド監督は、誰にも会わず電話にも出なかったが、彼の電話にだけは出て、あの場面で出来るだけのことをしたのだから、という言葉で立ち直ったと言う。 尚、同じ頃、彼も抑えのエース、デニス・エッカースリーがロベルト・アロマ−に逆転ホームランを打たれ、トロント・ブルージェイズにALCSで敗れていたのだから、説得力があったはずである。
またリーランドのバリー・ボンズ、ボビー・ボニーヤなどの中心選手が、プレイオフではまったく打てなかったことも、彼のホゼ・カンセコ、マーク・マグワイアがワールドシリーズでは活躍しなかったこともあって、さぞ話が合ったに違いない・・・。不思議なのは、彼はタバコを嫌うのに、リーランドは禁煙のベンチで隠れてタバコを吸っていたほどのヘビースモーカーだということである。
 96年にカーディナルスが地区優勝を決めたゲームの相手がリーランドの率いるパイレーツだったのだが、BSの解説で、彼のコーチだったのにリーランドの方が老けて見えるからか、彼らの年齢差が話題になり、少し後になってから情報が入ったらしく、アナが「同い年だそうです」と言うと、富沢氏やもうひとりの解説者の「えっ、同い年ですか」「同い年?」「同い年〜?」と、意外そうな声がエコーしていた。1944年12月15日、オハイオ州トレドの生まれ。短かった選手時代はマイナーどまりの捕手だった。
04年、フィラデルフィア・フィリーズ監督の候補として名前が挙がったが、結局はチャーリー・マニエルに決まった。その後も、俺がなりたかったと、やる気のある発言が記事になっていたが、05年10月、故郷デトロイト・タイガースの監督に就任。コーチ陣を元パイレーツ選手などの腹心で固めた。
06年就任1年目で4月末から首位を独走、シーズン優勝かと思われたが、最後にツインズの猛追でリーグ優勝を逃し、プレイオフはワイルドカードで出場した。ALDSでNYヤンキ―スに1敗後、3連勝で勝ち、ALCSでは、オークランドA’sに4連勝、ものすごい勢いでアメリカン・リーグを制した。低迷続くあのデトロイト・タイガースを、84年以来のワールドシリーズに導いたのはさすがである・・・(が、ワールドシリーズでは、彼のやりくり上手のチームに1勝3敗と敗退した)。もちろん、06年のALマネージャーオブザイヤー受賞(彼自身は3度目)、コックス、彼に続き、3人目の両リーグでの受賞者となった。田口選手の日記に、尊敬する人として登場し、Yahooにもにこやかに田口選手が話しかける写真が出ていたが、気難しそうな明治の元勲のような風貌である。ただ、タイガースがオークランドA’sに連勝し、アメリカンリーグ優勝が決まったとき、バックネットのところの奥さんとお嬢ちゃんにネット越しにキスしたあと、そこにいた若い男性のファンが、ボクにも〜と言ったらしく、しょーがないなあと、キスした後、珍しくちょっと笑っておられた。「LEYLAND FOR GOVERNOR」のサインとともに、印象的なシーンであった。

His General Manager


Walt Jocketty

 2000年の「The Sporting News」のExecutive of The Year Award(GMオブザイヤー)に選ばれた、セントルイス・カーディナルスのGM。「トニー・ラルーサみたいな良い人をひとり雇うと、そしたら後はついて来るんだ。」と語る。1994年にカーディナルスのGMに就任以来、2度チームを作り変えた。95年に彼がカーディナルスの監督に就任した時、BSの解説で富沢宏哉氏が「ジョケッティGMは、もとオークランド・アスレティックスだから〜」と、当然のように頷いておられたが、ジョケッティの最初の仕事は、1975年にデモインのマイナーチームの月給$500のスカウトだったそうだ。1999年のシーズン終了後、すぐにフロリダで会議を開き、どん底だったチームを根本から立て直すことを決め、ダリル・カイル、アンディ・べネス、パット・ヘンゲン、デイヴ・ヴィアース、フェルナンド・ヴィーニャ、マイク・マティニ―、そして2000年の開幕直前にジム・エドモンズ、シーズン中盤にはウィル・クラーク、カルロス・ヘルナンディス、マイク・ティムリン、ジェイソン・クリスチャンセンを獲得し、ナ・リーグセントラル優勝チームを作ったのだった。ドラフトでは、JD・ドリュ―、チャド・ハッチンソン、リック・アンキールなどを獲得している。彼のハイライトは、テキサス・レンジャースからフェルナンド・タティ-ス、アナハイム・エンジェルスからジム・エドモンズを、そしてもちろん1997年にオークランド・アスレティックスからマーク・マグワイアを、トレードで獲得したことだという。2000年のシーズンで49歳、7月頃、心臓の手術から回復、2004年までGM自身の契約を延長、肩書きもSenior vice presidentになった。

His Players

※は元選手

Mark McGwire

 1963年10月1日、カリフォルニア州クレアモント生まれ、86〜97年7月31日までオークランド・アスレティックスの内野手、97年7月31日〜2001年までセントルイス・カーディナルスの1塁手。ちょうど彼がアスレティックスの監督に就任した年にメジャーリーグ昇格し、翌年ホームラン49本、打点118でルーキーオブザイヤー獲得。息子のマシュ―君誕生のために最終ゲームを休まなければ、50本ホームランを打てたかも?というのは有名な話だが、家族の方が大事だと彼とよく話し合った末のことだったという。その後、同僚のホゼ・カンセコとバッシュブラザーズと称され、オークランド・アスレティックスのシーズン優勝に貢献した(が、ワールドシリーズでは、有名なホームラン1本以外だめ)。で、97年、数年来のケガを克服し快調にホームラン数を伸ばし、ロジャー・マリスのシーズン最多ホームラン記録更新の期待がかかったが、オフにはフリーエージェントになるので高額年俸が払えないアスレティックスからシーズン終盤のトレードに出されることになり、色々なチームが名乗りをあげた。なかには2000年にチームメイトになった、エンジェルスのジム・エドモンズとのトレード話もあったという。しかしどのチームともなかなか折り合いが付かず、カーディナルスも加わったと知り、これは決まりだと思ったらその通りになった。
その後の活躍は’98 McGwire & Sosaをご参照のこと。99年シーズン後半マグワイアは、引退後は監督か打撃コーチになりたいと表明したが、彼はきっと良い監督になれると思うとコメント、その際にはベンチコーチに雇ってくれると約束したのだと言う。また、2000年のシーズン後半、右膝を傷めたマグワイアがDLから復帰後、本調子ではないがゲームに参加させるため初回に代打で起用し続けたのだが、この方式で全ポジションを守らせてやると、彼はジョークを言ったそうだ。また、2001年のシーズン後半、カーディナルスは猛追し9月に首位に迫ったが、9月11日のテロ事件で1週間ゲームが中止になった後、再び連勝を続け、ついにワイルドカードでプレイオフ出場を決めたのだが、マグワイアは、「89年のワールドシリーズでのロマ・プリータ地震で、10日間の中断後、サンフランシスコ・ジャイアンツに連勝した経験を生かした彼の功績」と、コメントしていた。

2001年のシーズンは、手術した膝の調子が悪く、また高めになったストライクゾーンに苦しみ成績不振で終わり、シーズン後、チームに提示される金額ほどの活躍が出来ないと契約延長を辞退、引退を表明したが、じつに潔い引き際だとジョージ・ウィルが絶賛していた・・・。

Harold Baines
 

 1959年3月15日、メリーランド州イーストン生まれ。80〜89年、シカゴ・ホワイトソックス、91〜92年、オークランド・アスレティックスの外野手とDH。1977年、ホワイトソックスのドラフト1位指名選手で、78年ノックスビル、79年アイオワ、そして80年ホワイトソックス昇格と、彼の監督としてのキャリアの最初から一緒に歩んだとも言えるのが、ベインズである。80〜89年までホワイトソックスで活躍、故郷の英雄ベーブ・ルースと同じ背番号3は永久欠番になったが、自身は89年7月29日、テキサス・レンジャースへトレードに出されたのだった。尚、フレッド・マンリクと2対3のトレードでホワイトソックスが交換した選手達は、スコット・フレッチャ―、ウィルソン・アルバレス、そしてサミー・ソーサだった。しかし、テキサスに馴染めないと彼に打ち明けていたらしく、それが90年8月29日の有名なトレードに繋がったのではと思う。BSでは富沢宏哉氏が「ラルーサ監督のお気に入りの選手」と解説されていた。伊東一雄氏は「ベンチで隣に座っていても、黙〜って何もしゃべりません」という目撃談を語っていたことがある。その後93〜95年は故郷のボルチモア・オリオールズに移籍、97年またホワイトソックスに戻ったかと思えばオリオールズにトレードされ、99年8月31日のトレードでクリーブランド・インディアンスに、そしてオフにはフリーエージェントになり、またオリオールズと契約したが、2000年シーズン途中でまたホワイトソックスにトレードされ、2001年はまたホワイトソックスと契約して、300本安打達成を狙うという、忙しい現役生活を送っていたが、01年に現役引退。04年、元同僚のオジ―・ギエン監督に招かれ、ホワイトソックスのベンチコーチに就任(06年には1塁コーチ)。
 90年のALCSプレイオフ、対レッドソックス戦の第1戦、確か1対1の接戦だったが、8回のチャンスに彼は4番DHのベインズにバントを命じ、まんまと成功したのだが、アメリカの放送では「たとえ4番打者でも、8回以降はバントもあり得る」と彼が言ったと、相当型破りな作戦であると解説していたが、当時のBSの解説の伊東一雄氏、西田善夫アナ以下も、日頃からの伊東氏の力説「メジャーでは、4番打者バントをさせない」という常識を覆す作戦として、スタジオ中が驚嘆の渦だった。が、TSN誌記事を後で読んだところ、ベインズはバントのサインを忘れて、オンデッキのカーニ―(たしか)に、「あれ、バントかな〜?」と確かめに来たという証言が載っていたのだった。


Dennis Eckersley    

 1954年10月3日カリフォルニア州オークランド生まれ。87〜95年までアスレティックスの投手。
最初は先発で他のストッパー候補が故障したことから、彼とダンカンが抑えに回したのだが、これが大成功。88年は4勝2敗45セーブで、優勝に貢献、ポストシーズン、ALCSプレイオフの対レッドソックス戦4ゲームに登板、4セーブをあげプレイオフのMVPを獲得。抑え投手として無くてはならぬ存在になり、アスレティックスのリーグ4連覇に重要な役割を果たした。また92年には69ゲームに登板し7勝1敗51セーブ防御率1.91の驚異的な成績でチームの地区優勝に貢献し、サイヤング賞とアメリカン・リーグのMVPをダブル受賞した。(「チームの勝ち数の半分のセーブ数なんて、これはすごいことなんですよお」と山田久志氏が解説していたっけ)しかし93年だったかさすがに衰えが見え始め、今までほとんどなかったセーブ失敗が続いたとき、彼が「今までのThe Eckの功績を考えるように」とクラブハウスに掲示し、Eckersleyを感激させたという。またある記録達成時(300S?)に、彼が感激のあまりか、マウンドでEckersleyに抱きついている写真がSI誌に載っていたことも・・・。また92年のALCS対ブルージェイズ戦で、ロベルト・アロマ―に逆転ホームランを打たれ、次の打者にもヒットを打たれた後、すがるような眼差しをベンチに向けたとたんに、彼が飛び出して来たシーンは、交代の後、何度もリプレイされていたが、忘れられないシーンだ。
 95年秋に彼がカーディナルスへ去ったときは、「もうすこし考える」と言っていたが、年が明けると「もう一度優勝するときは、側にいてほしい」と彼が言ったからと、カーディナルス行きを熱望。アスレティックスの当時のサンディー・オルダーソンGMも、「デニスのために良いようにしてやりたい」と、2月にトレードが成立、彼の持ち込み選手のひとりとなった。余談だが、そのニュースのEckersleyの写真は、アメリカ最大のドッグショーであるウェストミンスター展の優勝犬、クランバー・スパニエルの写真と並んでUSATODAY紙に掲載されていた・・・。
96年、1勝5敗36セーブをあげ、カーディナルス地区優勝に貢献したが、97年オフにはW・ジョケッティGMから、「引退するか、よそへ行くか」と言われ、古巣のレッドソックスと契約。98年12月引退を表明した。2000年、2001年のスプリングトレーニングにはカーディナルスの臨時コーチとして参加し、彼のファンだったらしいダスティン・ハーマンソン投手なんか大喜びしていた。
1972年、インディアンスのドラフト3順目指名選手で、75年メジャーリーグデビュー。77年対エンジェルス戦でノーヒットノーランを達成。78年3月レッドソックスへトレードされ、そのシーズンに20勝を達成。84年カブスへトレードされたが、交換選手はなんとあの有名なBill Bucknerだった・・・。また、アスレティックスへのトレード直前にアルコール依存症を克服したことも有名で、メジャーリーグ24年間の通算成績197勝171敗390セーブ防御率3.50は、「一流投手2人分の野球人生を送ったのと、同じくらいすごいこと」(福島良一氏)で、もちろん2004年のHall Of Fame入りは確実、と言われている。彼の背番号43は、今や各チームのストッパーの定番になっている。04年1月6日、Paul Moriterと共にストレートで殿堂入り選手に選出された。

Mike Bordick

 1965年7月21日、ミシガン州マークィット生まれ、90〜95年まで、オークランド・アスレティックスの内野手。96年フリーエージェントで、ボルチモア・オリオールズと契約。彼の加入により、カル・リプケンは3塁にコンバートされた。2000年後半には、緊急トレードでニューヨーク・メッツに加入した。小柄だが2塁とショートの守りが巧い、彼好みの選手で、2000年のNLCS、カーディナルス対メッツの放送中に、彼についてのインタビューを受け、「もっとも尊敬する人だ、野球のことを色々教えてもらった」と、美しい瞳を輝かせて語っていた。
92年だったかBSの録画放送で見たテキサス・レンジャースとの対戦で、ボーディックはノーラン・ライアン投手から頭にデッドボールを受けて倒れたのだが、真っ先に彼がかけつけて抱き起こしていたシーンは忘れられない。幸い大事には至らず退場したようだったが、まだ観客も選手達も落ち付かない雰囲気のなか、ゲーム再開後の1球目に彼はヒットエンドランをかけ、まんまと成功したのも忘れられない。
02年
9月20日、ショートストップとして102ゲーム連続無失策のメジャーリーグ記録を樹立した。

※Walt Weiss

1963年11月28日、ニューヨーク州タクシード生まれ。85年アスレティックスでドラフト一巡11番目指名で入団、85年メジャーリーグ昇格、87〜92年まで、オークランド・アスレティックスのショート。華麗な守備で活躍し、86年のホゼ・カンセコ、87年のマーク・マグワイアに次ぎ、88年ルーキーオブザイヤーを獲得、なんとあのホゼ・カンセコとはいちばん仲がよかったという。また、ケガが多く毎年のように膝の軟骨の手術を受けるので、「歯医者さんへ行くようなものさあ」と言っていると読んだことがある。92年にチームは緊急トレードでヤンキ―スからウィリー・ランドルフ2塁手を獲得したが、ワイスは「子供の頃の憧れの選手と二遊間を守るなんて、変な気分だなあ」と言ったそうだ。
92年のシーズン終了後、フロリダ・マーリンズとコロラド・ロッキーズ創設時のためのエクスパンションドラフトが行なわれ、当然のようにワイスもプロテクト選手に入っていたが、ドラフト終了直後、フロリダ・マーリンズへトレードに出さ
れ、ワイスは「今年は彼とあまり話さなかった・・・」と、コメントしていた。その後、94〜97年までコロラド・ロッキーズ、98〜2000年までアトランタ・ブレ―ブスで活躍、2000年シーズン終了後、引退した。99年のNLDS第4戦、ブレ-ブスのショートとして、またもやアストロズ敗退のきっかけを作った超ファインプレイは印象的だった。

Dave Henderson

 1958年7月21日、カリフォルニア州ドスパロス生まれ。1988年〜93年まで、オークランド・アスレティックスの外野手。愛称ヘンドゥー、長打力もあり肩も良かったが、特徴あるスキッ歯でいつもにこにこ、人懐こい大型犬のように明るく、野球をするのが楽しくてたまらないという雰囲気の選手だったので、当時のオークランドコロシアムの外野席には、「Hendu Land」(刺繍でけっこうお金がかかってたらしい)「Hendu’s Bad Boy Club」などの横断幕が掲げられ、ファンクラブが3つもあったほどの人気者だった。90年のBSで、ちょうど7月21日の誕生日に録画中継があり、ゲーム中に外野席のファンの掲げるろうそく?に向って息を吹きかける、微笑ましいシーンが映っていた。富沢宏哉氏が解説で「大好きな選手です」と言っておられたのも当然という感じがしたものだった。91年にトロントのスカイドームで行なわれたオールスター戦にファン投票で選ばれて出場した時、5回のグラウンド整備陣が外野からリムジンに乗って登場したのだが、好奇心いっぱいで中をのぞきに行ってグリフィーJr.を呼ぶところが、子供のように可愛かった。91年にはカーニ―・ランスフォードのケガで2番バッターを務めたのだが、BSの福島良一氏の解説によると、2番バッター不在に悩む彼に父上が「ヘンドゥ―が2番バッター向きではないか?」と提案したのだという(アナが思わず聞き返していた・・・)。また、90年頃だったか、リッキー・ヘンダ―ソンに赤ちゃんが生まれた後、なかなかチームと合流しないので、またわがままかと困っていたら、ヘンドゥ―は「まあ、子供が歩き出すまでには来るさあ」と笑っていたそう。尚、ヘンドゥ―が90年8月にコミスキーパークの外野の芝生に足を取られて転倒し古傷の膝を傷めて手術後、1ヶ月DL入りしたとき、チームはヘンドゥの穴を埋めるために、色々な選手をマイナーから昇格させてみたがうまくいかず(ダレン・ルイス、ホゼの双子の兄オジ―・カンセコなど)、プレイオフ、ワールドシリーズがかかっていたとあって、サンディ・オルダーソンGMと彼は、セントルイス・カーディナルスからウィリー・マギー、デイヴ・パーカーが去って後定着しなかったDHにテキサス・レンジャースからハロルド・ベインズを一挙に獲得、有名な大トレードを敢行したのだった。
1981年〜86年までシアトル・マリナーズ、86年にはボストン・レッドソックスへトレードされ、87年にはサンフランシスコ・ジャイアンツへトレードされた。94年にフリーエージェントでカンザスシティ・ロイヤルズへ、95年のシーズン終了後引退。現在はシアトル・マリナーズのテレビ、ラジオの実況を担当。99年のキングドームお別れゲームでは、ゲストのグリフィーSr.もまじえて、(ネクタイとスーツがちょっと似合わんかったが)以前と変わらぬ明るい笑顔で楽しそうだった。もちろんリッキーとは血縁関係はない。
2001年のシーズンはイチロー選手のマリナーズ入りで、ヘンドゥーの実況がときどき聞けたのは嬉しかった・・・。

Doug Jennings

 1964年9月30日ジョージア州アトランタ生まれ。88〜91年まで、オークランド・アスレティックスの外野手。誰かが怪我をしたときにマイナーからやってくる、「隙間選手」という存在でがんばっていたのだが、オリックス・ブルーウェイブと契約した時、日本のマスコミは?という感じだったので、研究が足りないと思った。しかしさすがにアスレティックスの選手のひとり、トロイ・ニ―ルと共に勝負強く活躍、オリックスの優勝に貢献した。彼がやって来た年のオープン戦だったか、トロイ・ニ―ルがホームランを打つと、神戸グリーンスタジアムの外野席でA'sの帽子をかぶった2人の少年が、オークランドでカンセコとマグワイアがやっていた肘を打ち合わす、いわゆる「バッシュ」をやっていたぞ。日本版のリトル・バッシュブラザースというべきか。DJは雑誌のインタビューで、彼を「いちばん尊敬している」と言っていた。87年エンジェルスからマイナーリーグドラフトで、A's入りしている。

Jim Edmonds

 1970年6月27日カリフォルニア州フラートン生まれ。2000年3月23日、シーズン直前にケント・ボッテンフィールド投手、アダム・ケネディ内野手との2対1のトレードでアナハイム・エンジェルスからカーディナルスへやって来た外野手。93年か94年にエンジェルスでは、J・T・スノウ、ティム・サーモンと3人で「カリフォルニアボーイズ」と売り出し、97、98年にはゴールドグラブ賞を受賞するなど活躍していたが、ケガが多くまた性格が問題視され(もと同僚の長谷川投手によると、派手なリアクションが嫌いなんだと)干されていたが、セントルイスにはそんな悪い噂も届いてなくエドモンズのプレイぶりだけで評価されたので、シーズン当初から人が変わったような大活躍、クラブハウスでも人気者になったことで、感激のあまりとマグワイアのすすめもあり、シーズン初めにさっさとカーディナルスと契約を済ませ、セントルイスに大きな家も買ったのであった。
なんでもカリフォルニアの自宅は、マグワイアの家とは車で10分くらいしか離れていないそうだが、それまでお互いまったく付き合いがなかったのにセントルイスでは意気投合し、マグワイアはエドモンズにアメリカンリーグとナショナルリーグのストライクゾーンや打席の違いについてのアドバイスをしたり、またメジャーリーガーとしての心構えなど、「一晩中、野球の話を聞いてると、ご飯をおごってくれるんだ」そうだ。最初の頃は、レストランでマグワイアはサインを求められてもエドモンズを知る人はほとんどなく、「誰?あんた」と聞かれて、「マックのボディーガードさあ」と、てきとーに答えていたが、そのうち「んなら、なんで彼の半分の大きさなんだ?」と言われちゃったあと、冗談を言っていた。
2000年のシーズンは、打率2割9分5厘、ホームラン42本、打点108のキャリアハイの成績をあげ、守備でも目のさめるようなスーパーキャッチで魅了しゴールドグラブ賞を受賞、オールスターゲームにも5年ぶりに出場、MVP級の活躍でチームをセントラル地区優勝へと導いた。2001年のシーズンは古傷の痛みもあり不調だったが、中盤に彼の「大振りをやめてラインドライブヒッティングを心掛けろ」の一言でぐんぐん上り調子になり、チームもオールスター以後ナ・リーグベストの勝ち数になり、ワイルドカードでのプレイオフ出場を決めたのだった。チームとしては2年連続100打点以上の選手は、1974,75年のテッド・シモンズ以来、マグワイアとエドモンズ、そしてプーホーツである。尚、2001、02、03、04、05年のゴールドグラブ賞も連続受賞している。
彼は、2000年優勝時のインタビューで、エドモンズについてはトレード前に色々噂を聞いたが、「全部、本当ではなかった。エドモンズはクラブハウスでは、みんなのベストフレンドだ」と言っていたが、エドモンズも2001年後半の好成績について、彼の功労であると認め、「自分が残りのキャリアをプレイしたいと思う監督は、確実に彼だね」と、可愛いことを言っていた(この一言で、「愉快な仲間」入りが決まったのは言うまでもない)。
中継ぎのむさくるしいヒゲを生やしたマイク・ジェームズ投手とはエンジェルス時代からの親友で、2000年の優勝時には抱き合って喜んでいたのが印象的であった(エンジェルスでは優勝できなかったもんね)。


Joe McEwing

 1972年10月19日ペンシルバニア州ブリストル生まれ。98年〜99年まで、カーディナルスのユーティリティープレイヤー。どこでも守れる器用な選手で、誰かのケガで突如登場し、いつもユニフォームがいちばん汚れているハッスルプレイで彼の信頼と地元ファンの人気を勝ち取り、スーパージョーと呼ばれるようになった(名付け親は当時のバッティングコーチ)。が、00年3月、春のキャンプ時にどうしても中継ぎ左投手が欲しかったとはいえ、ニューヨーク・メッツの40歳のジェシー・オロスコ投手とトレードされたときは悲しかったものである(オロスコさんも活躍せず、トレードも失敗だったなあ)。彼も別れを惜しみ、記念にサイン入りのスパイクをもらったほど、今でも監督室に飾ってあるんだそうだ(んなら、なんでトレードしちゃったんだよお)。現在、メッツでもがんばっているが、いつもブッシュスタジアムに来ると、盛大なスタンディングオべーションで迎えられる愛すべきプレイヤーである。

Albert Pujols

 1980年1月16日、ドミニカ共和国サントドミンゴ生まれ。セントルイス・カーディナルスの内野兼外野手(最近はレフトに定着、対左投手時はティノ・マルティネスの代わりに一塁手を務めている)。04年からは1塁手である。2000年12月、カーディナルスはモントリオール・エキスポズとのトレードでフェルナンド・タティース三塁手とブリット・レイムズ投手を放出、ダスティン・ハーマンソン、スティーブ・クライン両投手を獲得したのだが、このときタティースの後任の正三塁手として名前の挙がった有望新人が他ならぬプーホーツ。99年のドラフト入団以来、1シーズンでAからAAAまで飛び級した期待の星だということだった。まだ、名前の読み方もわからんかったが、1イニング2満塁ホームランの記録をもつ若手のタティースを出すほどなのでそうとうすごい選手なのだろうが、大丈夫かと期待と不安でいっぱいになったものだった。で、01年のキャンプ、オープン戦で活躍したものの、なんといってもまだプロ入り2年目の21歳ということから、毎週のようにマイナー行きのリストにはあったのだが、いやいや、もう少し様子をみようとの首脳陣の判断で残され、結局は大ベテランのボビー・ボニーヤのシーズン直前のケガによって開幕からロスターとなり、なんと打率.329、ホームラン37本、打点130の大活躍でチームのワイルドカードでのDS進出に貢献、ルーキーオブザイヤーを獲得したのであった。翌02年も、打率.314、ホームラン34本、打点127と、セントラル地区優勝に貢献、ルーキー以来2年連続で3割、30本、100打点以上は長いメジャーリーグの歴史上初の記録(ということは、タイ・カッブ、べーブ・ルース、ジャッキー・ロビンソン、ジョー・ディマジオにピート・ローズも達成していない)で、ナショナルリーグMVP投票ではシーズン本塁打記録更新のバリー・ボンズの次点であった。03年のシーズンも、打率、打点、ホームラン部門でトップ争い中、しかも打率は夢の4割を狙える高打率、三冠王も夢じゃないというすごさで、8月には40ゲーム連続ヒットも記録、04年のオールスターゲームのホームラン競争では大活躍したし、もちろん、チームのワールドシリーズ進出に貢献、05年は史上4番目の新人から5年連続100打点を達成、チームの中心打者として順調な成長どころか、もはや殿堂入りまっしぐら、ケガにさえ気を付ければ歴史に残る名選手となるものすごい大物である。今まで見たメジャーリーグのスラッガーでは、マイク・ピアッツア、モー・ヴォーンなどルーキーの頃からすでに10年選手のような貫禄充分だったが、プーホーツ君もまったく同じ、初々しさがなくとても21歳にはみえなかったのを思い出す(実際、南米出身選手はよく年齢を偽っているが、彼は本当の年齢だそうだ)。
あまり選手を較べたりしない彼も、03年シーズン中に、「今まで監督した中でのベストプレイヤー」とコメント。なにせリッキー・ヘンダーソンにマーク・マグワイア、デニス・エッカースリーなどなど殿堂入り確実選手たち、殿堂入りしたカールトン・フィスクなど数多くの名選手を知っているお方の発言なので、ものすごい重みがあり、愉快な仲間入りも決定したというわけです。
両親兄弟と共に子供の頃、カンザスシティーに移住、高校のダンスパーティーで知り合った女性とマイナーリーグ時代に結婚し、メジャーデビュー前にすでに息子のAJが生まれていたという、けっこう早熟でしっかりしたお方で、彼女の連れ子でダウン症の女の子を自分の子供のように可愛がり、ダウン症の方へのチャリティーも積極的に行なっていらっしゃり、05年ロベルト・クレメンテ賞の候補になるなど、セントルイス・ラムズの元QBカート・ワーナーに通じる真面目な人柄もチームのみんなやファンに親しまれているそうだ。(ということで、わがHPでの大ボケ発言するぷー君は創作されたキャラクターなので、念のため・・・)03年のシーズンは3割5分9厘で首位打者のタイトルを獲得、シルバースラッガー賞、ハンク・アーロン賞、メジャーリーグプレイヤーによる投票で選ばれるプレイヤーオブザイヤーに選出されている。05年、ついにナショナルリーグMVPに選出された。06年4月、ホームランを14本かっとばし、4月の月間ホームラン新記録を達成。しかし、6月、脇腹を負傷し、シーズン成績が伸びなかった(といっても、2、3位だが)。ワールドシリーズ優勝のあと、なんとナショナルリーグのゴールドグラブ賞(1塁手)を初受賞した(デレク・リーがけがしていたからかなあ)。

田口 壮

02年1月9日、セントルイス・カーディナルスに入団した、チーム史上初の日本人選手。エージェントが名場面集のCDを作って配ったところ、控えの外野手を探していたジョケッティ―GMの目にとまり、3年契約を結んだ。ここではっきりさせたいのは、カーディナルスは、日本人観光客や日本からの中継によるファン増化をあてこんで契約したのではないし、オリックスでの同僚イチロー選手にあやかったのでもなく、純粋に田口の技量を買ったということである。1月のファン感謝デイである、ウィンターウォームアップでの入団発表には、チームリーダーのマイク・マティニ―捕手が駆け付けていたっけ。そして、スプリングトレーニングの初日、いきなりオフには高校でレスリングのコーチをやっているスティーブ・クライン投手にヘッドロックをかまされ、うめいている姿を見ながら、マット・モリス投手が、「田口もああやって、自分の家にいるような気分になればと思うんだ(おいおい)」と話したという記事が忘れられない。彼も、うんかの如くあらわれた日本マスコミに対して、「しつもんは?」という日本語でサービスしたり、しかし、「質問に答えるのは仕事だからいいが、毎日全員に同じ質問ばかり何度もされてもなあ」と、いかにもと、恥ずかしさのあまり頭を抱えた(私や、私)、感想を述べていたものである。が、オープン戦に入り、地元紙によると、「バットボーイのようだ、今度はCDでなく実物を見てとってよね」と期待外れの烙印を押され、彼も「守備はうまい、問題は打撃だ」で、マイナー暮らしを余儀なくされた。この年の秋、若いものに混じって、アリゾナ秋季リーグに参加した様子をNHKでみたが、ジョケッティ―GMが視察をして田口を励ます場面が見られた。GMも責任を感じて、わざわざと田口選手を見に来たのだろうか、または毎年視察をしているのかはいまだにわからないが、仕事熱心なGMが田口を見捨てず、努力する姿を見守る暖かい目を感じたのであった・・・。デビューはその年の6月、シアトル・マリナーズとのインターリーグ戦であったが、ぱっとせず、すぐにマイナーへ戻された。その後、03年もマイナー暮らしがほとんどで、AAのニューへヴン行きも経験したが、04年、ようやくメジャーリーグのベンチに定着し出し、ポストシーズンにも出場したのであった。05年、シーズン初めからベンチ入り、守備に打撃にレジ―・サンダース、ラリー・ウォーカーのケガの隙間を埋めるに余りある大活躍をして、シーズン優勝に貢献している(活躍すれば、地元紙も見直すのであった)。得意の守備は、CNNJの「WORLD SPORT」で、play of the dayを2度とったほど、なおかつ、ネット日記で毎日のようにカーディナルスの内情を暴露している。本当に家族的で愉快な仲間たちであることも、彼がいかに有能で選手をやる気にさせる監督かということも、日本のファンに嫌と言うほどわかるように広める役割も果たしている。これは、まったく予想もしなかった嬉しい驚きで、「知れば知るほど良い人たちばかり」から、有名なミーティングの様子、飛行機での移動中に選手の寝顔を見てまわる彼の描写、チャリティー活動にも積極的に参加する様子など、画面とインタビューで想像していた以上に素晴らしい方とその選手達であることが証明され、涙が出るほど感激するリポートぶりである。
05年9月のNHKとのありきたりのインタビューの最後に、「他のメジャーリーガーにない、誇れるものはなんですか?」という意味の、これまたなんでそんなこと聞くんや?ことを聞かれ、絶句した後、「自分には他の誰にも負けない同僚や監督、コーチがいる」と答えていたこと、06年の彼のARFの有名人とペットとのカレンダーの12月に田口選手と愛犬ポコが選ばれたことが、愉快な仲間入りのきっかけになった。

06年NLCS第2戦の流れを変えたホームランは、05年のホワイトソックスのAJ・ピルジンスキーの振り逃げ、03年のモイゼス・アルーへのフライをもぎ取ったカブスファン、ポストシーズンといえば、ジム・レイリッツ、マーク・レムキの活躍、91年のNLCSのフランシスコ・キャブレラのサヨナラヒット、近鉄の加藤発言に匹敵する(おっと、私はもとパ・リーグファン)ものだと思う。個人的には、99年のNLCS、対アトランタ戦でのメッツのロビン・ベンチュラの、代打逆転満塁サヨナラ・ホームランも思い出させてもらったが、まさに歴史に残るプレイであった。聞くところによると、歴史上その一瞬のためだけに存在したとしか思えない人間がいるのだが、田口選手は、このホームランを打つために、カーディナルスに遣わされたのではないか、とさえ思うくらいだ。ともあれ、バント、守備などの堅実なプレイでの勝利への貢献とともに、栄光の06年ワールドシリーズ優勝メンバーとして、永遠に語り継がれる選手となるはずである。
1969年7月2日生まれ、兵庫県西宮市出身。91年に関西学院大学からドラフト1位でオリックス・ブルーウェイブ入団。イチロー、本西と鉄壁の外野を誇り、ゴールデングラブを5回受賞、95年96年のパ・リーグ優勝、96年の日本一に貢献した。00年シドニー・オリンピックの日本代表チームのメンバーでもあった。カーディナルス入りが、当時のチームメイトで彼のA’sでの選手、トロイ・二―ルとダグ・ジェニングスから噂を聞いて、というのならば文句なしなのだが、そうではないので、がっかりしたもんだが(失礼)、日本では仰木監督、新井コーチ、アメリカでは彼とコーチ陣、日米を代表する首脳陣のもとで野球をしてきた方である・・・。06年のワールドシリーズ優勝により、日本シリーズとワールドシリーズ優勝を経験した、6人目の選手(日本人としては、井口選手に次いで2人目)となった。エドモンズ君と外野を守り、 ぷー君をアルバートと呼び、一塁に出ればデイヴ・マッケイコーチに肩を抱かれ、クラブハウスを訪問したくま先輩と言葉をかわし、仰木、新井両氏がキャンプを訪れたこともあり、そして彼をトニ―と呼び、♪I'm a Soul men〜♪な、なんてうらやましい・・・。彼のチーム初の日本人選手が田口選手で本当によかったというのが、偽らざる本音である・・・。


06年NLCS第2戦、NY・メッツのストッパー、ビリー・ワグナー投手から、均衡を破る値千金のホームランをかっとばしたとき、セントルイスの新聞のコラムに載った記事は、こうしめられていた↓。
”I know fans were dancing in St. Louis on Friday night. I hope they were dancing in the Hyogo Prefecture, Taguchi's birthplace. This moment needed no translation, in Missouri or Japan. It was pure baseball magic. ” 
(こう言ってはなにですが、11年前から喜びも悲しみも一体になってるんだわよ、ブッシュスタジアムの観客の表情のアップを見ると、まるで鏡を見てるように思うくらいなのよっ、今頃気がついたのね!バーニー記者(失礼)。

Darryl Kile

1968年12月2日カリフォルニア州ゴールデングローヴ生まれ。1999年11月12日、ストッパー兼中継ぎ投手でマイナー時代からの親友のデイヴ・ヴィアースと共に、マニー・アイバー、ホゼ・ヒメネス、リッチ・クラウショー、ブレント・バトラーとのトレードでコロラド・ロッキーズからやって来た先発投手。愛称DK、大きな縦に落ちるカーブが印象的で、2000年には自身初の20勝9敗の成績でチームの優勝に貢献、またまたダンカンコーチお得意の再生投手になった。カーディナルス投手陣のリーダー的存在で、新人投手たちの面倒見がよく、トミージョン手術から復帰したマット・モリスが01年に20勝挙げたときも、カイルのプロの投手としての心構えなどのアドバイスのお蔭だ、父親のように思っている(6歳しか違わないぞ)とはっきりと言っていたほどだった。またトレードやマイナーからチームに加わったばかりの新入り選手にも、すぐに溶け込めるように色々気を使う人だったという。
という理由で、先頭に立って号令をかけるリーダーというよりも、大柄で象のようにもの静かだが確かな影響力のある存在で、彼は「ジョン・ウェイン」と呼んでいたそうだ。
たしか2000年のプレイオフ初戦だったか、カイルが先発予定として記者会見に出たのにそれはカモフラージュで、じつはアンキールの先発だったときは、エースにそんなことさせて気を悪くしないのか心配したものだが、まったく気にしていなかったようだし、01年のシーズン初め、若いアンキールがコントロールが定まらずにはやい回で途中交代させられたとき、ベンチを立ってカイルら大先輩達が迎えに出たのに、悔しさのあまりか見向きもせずクラブハウスへ駆け込んだのだが、むっとした顔もせずに「ああ〜」とがっくり肩を落とし、もといたベンチへ引き上げたシーンは、アンキールを心配する様子がよくあらわれていて、優しい人柄を垣間見た気が゙したものである。
02年6月22日、遠征先のシカゴのホテルで就寝中に心臓発作で急死。チームはリーダーを失い大ショックを受けたが(マット・モリス投手など、かなり痩せたそうだ)、当日予定のカブス主宰のデイゲームは中止、そしてほとんどの球場ではゲーム前にカイルのために黙祷が奉げられ、なかでもカイルが長く在籍したヒューストン・アストロズでは、カイルのユニフォームがベンチに飾られたのだった。数日後ブッシュスタジアムで行なわれた追悼式には、カーディナルス関係者だけでなく、マイナー調整中のアンキール、アンディー・ベネス、コロラド・ロッキーズやアストロズでチームメイトだった、ルイス・ゴンザレス、カート・シリングらがチャーター機で、ヒューストン・アストロズからはオーナーが中心選手のクレイグ・ビジオ、ジェフ・バグウェルらを10数人を連れて自家用ジェット機で、アストロズ在籍時の監督で現在オークランド・アスレティックスのアート・ハウ監督も、シアトルでの大事なゲームに遅れるのに「来なくちゃいかんと思った」と駆け付けるなど、シーズン中にもかかわらず、錚々たるメジャーリーグの中心選手や、ダグ・ドレイベックなどの元選手達も大勢集まったことで、いまさらながらカイルの遺徳が偲ばれたものだった(日本で同様のことが起こればこうきちんとした対応がされるだろうかと、深く考えさせられた)。チームメイトは以後、右袖にカイルの最後の先発ゲームの日に亡くなった殿堂入り名実況アナ、ジャック・バックをあらわすJFBと、左にはDK57、ふたつの喪章を付け、球場には黒地に57の旗がたなびき、レフトにも57、またカイルのユニフォームはベンチに飾られるようになったのだった。
オールスターゲームに出場したマット・モリスはカイルのユニフォームをベンチに持ち込み、掌にDK57と書いたし、9月20日のセントラル地区優勝を決めたとき、アルバート・プーホーツはベンチの彼のユニフォームをグラウンドへ持ち出し、クラブハウスではジム・エドモンズがシャンペンシャワーをお見舞いし、みんなと共に勝利を味わっていた。もちろん、DSの勝利後も同様の光景がみられたのだった。
不思議なことにカイルの死後、シーズン終了までにカーディナルスはちょうど57勝した、というのは奇妙な数字の偶然かもしれないが・・・。
彼はカイルの死を知らされたとき、顔を覆ってすすり泣いたという。その後、監督室にカイルのユニフォームと写真を飾り、ブレスレットにDKのイニシャルを付けているそうで、「毎日カイルを思い出したい。彼は特別な尊敬に値する人間だった、いつも側にいるように思いたい」、絶対に忘れたくないそうである。
また、意気消沈したチームを、「どんなに苦しくてもカイルのためにがんばって優勝しよう」(おそらく、カイルには最後の優勝チャンスだから、ぜひともリングを、ということだと思う)とやる気をなくさずにポストシーズンまで導いた彼のリーダーシップは、改めて誰からも感嘆されているのだった。
尚、ブッシュスタジアムのカイルのクラブハウスのロッカーは生前のまま、そして金のプレートにこう書かれている。

Darryl Kile 1968−2002,Husband,Father,Teammate and Friend.God Bless You.You Are Gone But Not Forgotten. We Love You Darryl.Your St.Louis Cardinals Teammates.
2003年から、アストロズとカーディナルスのカイルのような選手に贈られる Darryl Kile Awardが創設されている。また、06年に出来た新球場にも、外野のフェンスには、DK57 があった。

Former His Player Turned Coach

Dave Stewart

1957年2月19日カリフォルニア州オークランド生まれ。86年〜92年、94年〜95年までオークランド・アスレティックス の投手。愛称ステュー。アスレティックスに来るまでは中継ぎ投手として鳴かず飛ばずだったが、デイヴ・ダンカンがスプリット・フィンガード・ファストボールを教えたところ、87年〜90年まで4年連続20勝以上をあげ、チームの連続優勝の中心選手になり、90年のALプレイオフと89年のワールドシリーズMVPを受賞する大選手に成長した。90年には対トロント・ブルージェイズ戦でノーヒットノーランも達成している。怖い顔で打者をにらみつけながら投球するので、「DEATH STARE」と呼ばれていたが、実際、5、6人殺したようなすごい形相だった。チームリーダーとしても、問題児ホゼ・カンセコや幼馴染でもある(という)リッキー・ヘンダ―ソンからも一目置かれる存在だった。またチャリティ活動にも熱心で、89年のワールドシリーズ第3ゲーム前に起こったロマ・プリータ大地震の際は、ユニフォーム姿でサンフランシスコの街に飛び出して救助活動を手伝ったという逸話があり、90年にはロベルト・クレメンテ賞を受賞している。 92年のオフシーズンにフリーエージェントになると、チームリーダーに去られては困ると、彼が電話で泣くわわめくわで4時間も説得にあたったにも関わらず、もう一度優勝したいとトロント・ブルージェイズと契約、93年のプレイオフで2勝をあげMVPを受賞した。この年、BSではALCSを全部中継しなくなっていたので、このゲームは見れなかったのが恨めしい。94年オフにフリーエージェントになると再びアスレティックスに戻って来たのだが、ブルージェイズでのチームメイトで、フリーエージェント組のスプリングトレーニング中に、フロリダのバーで乱闘騒ぎに一緒に巻き込まれたトッド・ストットルマイヤー投手を連れて来たのだった。しかしさすがに衰えたのか、「Death Stare」も、2、3人殺したかも?という程度の穏やかな形相になり、天文学的な防御率になったので、95年7月23日、シーズン半ばで引退を表明した。そのときの記者会見で、全盛期のように投げられない口惜しさか、人目もはばからずに号泣していた様子は、まるで「無実の殺人犯」のようだった(失礼)。96年にはサンディエゴ・パドレスのフロントに入り、98年、パドレスの投手コーチに就任、チームをワールドシリーズに導く見事な投手陣を作り上げた。99年、将来はGMになりたいとトロント・ブルージェイズのGM補佐に就任したが、2000年のシーズン半ばの投手コーチ解任の後、自ら投手コーチに就任した。
81年ロサンジェルス・ドジャースでメジャーリーグデビュー、83年〜85年はテキサス・レンジャース、85年〜86年はフィラデルフィア・フィリーズに在籍した。 88、89、90、92、93年でのALCSの通算成績は、10ゲームに登板し8勝0敗防御率2.03だったが、ワールドシリーズでは10ゲームで2勝4敗3.32であった。また4年連続20勝以上あげながらも、サイ・ヤング賞は一度も受賞できなかったという悲劇性も持っていた。たしか2000年、殿堂入り資格が出来たはずである。
 尚、ステューは90年の日米野球オールスターチームで来日したが、アスレティックスに来る前に読売ジャイアンツ入りしそうになったことがあるので(なんで入らなかったかは、ここでは触れない)、ちょっと感慨深げだった。で、当時の近鉄バファローズの新人王、野茂英雄投手(BSでアスレティックスのファンだったらしい)とユニフォームの交換をしていたが、その後ドジャース入りした野茂投手の活躍を、スチュ―はどう見たか、またあのユニフォームはその後どうなったのだろうと、聞いてみたい気がする。
尚、2001年11月、ミルウォーキー・ブリュワーズの投手コーチに決定、しかし人種差別でGMになれないと発言、物議をかもしていた・・・。02年7月29日、ママの面倒をみたいし、もっと家族と過ごしたいと突然ブリュワーズの投手コーチを辞任した。03年10月、オークランドA'sのプレイオフ中継でインタビューされていたが、アメリカオリンピックチームのコーチをされているそうだ。 

Mike Gallego

 1960年10月31日、カリフォルニア州ウィッテイアー生まれ。85〜91年、95年オークランド・アスレティックスの内野手。
ショートと2塁が守れて、彼のお気に入り選手と評判だった。90年のALCSプレイオフ、対レッドソックス第1戦の日、ボストンのホテルの部屋に戻ると、留守電に「フォースを信じて〜」というオビワン・ケノービを真似たメッセージが入っていたのだが、それは彼からのゲームの先発出場の知らせだった・・・。91年秋、フリーエージェントになり、「ガイエゴがいないなんて」との彼の言葉にもかかわらず、バック・ショウォルター監督の「ガイエゴは、ゲームの勝ち方を知っている選手だ」とのヤンキ―スからのオファーに「$1ミリオンも違うのに蹴るなんて、アホみたいだろ」と3年契約、デレク・ジーターの前のショートを務めた。尚、ショウォルター監督は、これ以後も故意か偶然か、アンディ・べネス投手、トッド・ストットルマイヤー投手など、彼が契約するつもりの選手の横取り常習者になった。ガイエゴは3年後、再びフリーエージェントになるとアスレティックスに戻って来ただけでなく、96年1月カーディナルスと契約、彼のセントルイス持ち込み選手のひとりになった。その後解雇でレッドソックスへ、しかし内野手がDL入りしたための補充に、またカーディナルスへ帰ってきていた。
5フィート11インチ(約172cm)とかなり小柄なことを自らジョークのタネにしていたらしく、「ゲーム前に国歌を聞いているとき横を見ると、バットボーイの方がボクより背が高いんだ」とか、「デイブ・パーカーがゴルフに誘ってくれたので、喜んでついていったのに一言も口をきいてくれないんだ。どうも、ボクのことボールのティーに使うつもりだったらしい」、また、90年の当時史上最強といわれたA’sのオールスターチームで、ひとりだけオールスターに出ていないと言われても(W・ワイスはルーキーオブザイヤー)、「ボクはリトルリーグのオールスターだったんだけど、カウントされないの?」などというコメントが載っていた。
02年、コロラド・ロッキーズのベンチ&内野守備コーチに就任。05年、三塁コーチになっているやんか。

Jamie Quirk

 1954年10月22日、カリフォルニア州ウィッテイアー生まれ。1990〜91年まで、オークランド・アスレティックスの控え捕手。スリムな長身(6.4)で、ブロンド、帽子さえ脱がなければ、じつに足の長い格好のいい捕手で、同じく長身でハンサムなスコット・サンダーソン投手とバッテリーを組んだときは、密かに「ビューティフル・バッテリー」と呼んでいた(失礼)。なぜかチームを去ったばかりの選手の背番号を付けていた覚えがある。引退後はカンザスシティ・ロイヤルズのブルペンコーチをしていたが、2000年からベンチコーチになったらしく、マック鈴木投手の登板ゲームには、マウンドでアドバイスする姿が見られた。98年、マグワイアがロジャー・マリスのホームラン記録を破った日、マグワイアの留守電には、もとアスレティックスのチームメイトたちと共に、ジェイミー・クアーク夫妻からのお祝いのメッセージも入っていたとSI誌に載っていた。
1975年カンザスシティ・ロイヤルズでメジャーリーグ昇格、77年ミルウォ―キー・ブリュワーズへ、78年にはロイヤルズへトレード、83年にはセントルイス・カーディナルスと契約、84年にはシカゴ・ホワイトソックス、クリーブランド・インディアンスと転々とし(ということは、一時的に彼のホワイトソックスでもプレイしている)、85〜88年はロイヤルズ、89年はヤンキ―ス、アスレティックス、オリオールズとまた転々とした。彼のおかげで「Journey man」という呼び方をはじめて知った。
尚、2001年11月、テキサス・レンジャースのブルペンコーチに就任。05年、コロラド・ロッキーズのコーチを務めている。
06年オフ、なんとオークランドA’Sの監督候補になっていたぞ。

Tom O’Malley

 1960年12月25日、ニュージャージー州オレンジ生まれ。ヤクルト・スワローズと阪神タイガースで大活躍した日本では有名な選手。79年のプロ入り後、82年にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャー昇格、84年9月にシカゴ・ホワイトソックスへトレード、シーズン後解雇されたが、一時的とはいえ彼のもとでプレイしたことがある。その後は、85年デトロイト・タイガース、ボルチモア・オリオールズ、テキサス・レンジャース、モントリオール・エキスポス、ニューヨーク・メッツに所属したいわゆるJourney Man選手、そして日本にやって来たわけである。引退後は、独立系のニューアーク・ベアーズの監督を務めているそうで、たしか「ナンバー」の記事に、彼と野村監督をお手本にしているとあった。2002年春、阪神タイガースの臨時打撃コーチとして再来日、そのまま正式にコーチとして就任した。現在は、スカウトだそうだ。

Bob Welch

 1956年11月3日、ミシガン州デトロイト生まれ。88〜95年まで、オークランド・アスレティックスの投手。
78年LAドジャース時代、ワールドシリーズでレジ―・ジャクソンを三振に取り、衝撃のデビューを飾ったことで有名だが、アスレティックスでも90年に27勝6敗をあげアメリカンリーグ優勝に貢献、サイヤング賞を受賞した。ドジャース時代後半はアルコール依存症がひどくなり荒れていたそうだが、アスレティックスではそれを克服しての好成績という点でも、評価されていた。
2000年のシーズン、ドジャースタジアムでのゲーム中盤、ビン・スカリーアナが、「ゲーム前、ラルーサ監督のケ―タイが鳴って、誰が電話してきたと思います?なんとボブ・ウェルチですよ、みなさんご存じでしょう?」と懐かしそうにレジー三振と27勝の解説をされていた。今は、独立系のマイナーチーム(Valley Vipers)の監督をしていて、今6時間のバス移動の最中で、「フリーウエイからドジャースタジアムの明かりが見えたので、懐かしくなって〜」電話してきたのだそう。じつはウェルチも、セントルイス持ち込み選手のひとりだった。90年のオールスター戦のアメリカンリーグ先発投手を務めたが、BSの生中継で西田善夫アナが、「ボブ・ウェルチが、イチゲ(石毛)はどうしている?と聞くんですよ〜」と嬉しそうに話されていた。日米大学野球で来日したことを、よく覚えていたそうだ。
尚、96年にはアリゾナ州立大の投手コーチをしていたそうで、2001年のシーズンよりアリゾナ・ダイヤモンドバックスの投手コーチを務めたが、2001年のプレイオフ、ディヴィジョンシリーズでカーディナルスと対戦中、ベンチの中のボブが映り「彼とダンカンコーチの影響を受けている」と、ジョー・バック&ティム・マッカーバーが解説していた。ただ、ちょっと帽子をかぶり直したときは、ショックだったが・・・。

Willie Randolph

Former His Scout turned G.M

Billy Beane

 1962年3月29日フロリダ州オーランド生まれ。89年のオークランド・アスレティックスで、カンセコ、マグワイアのDL入りの間がんばって優勝に貢献したユーティーリティープレイヤー。80年にプロ入り後、主に マイナーチームを転々とするJourney Manゆえに、彼が新顔の対戦投手について「誰か、知っているものは?」と聞くと、「He Knows EVERYBODY!」(W Weissの証言)だったので、シーズン終了後、選手としては解雇されたが、彼にスカウトにならないかと声を掛けられて承諾。以後、アドバンス・スカウト、アシスタントGMへと着々と出世し、サンディ・オルダーソンGMのMLB機構への転属を受け、2000年にはオークランド・アスレティックスのGM、VICE PRESIDENTに昇格、2000年のアメリカンリーグウェスト優勝チームを作り上げた。なんでもプレイオフ時の実況解説によると、今年のアスレティックスは、ビーンGMが92年のフィラデルフィア・フィリーズを目標に作り上げたのだという。なるほど、雰囲気が似ているはずだ。


Ron Schuler

?〜89年まで、オークランド・アスレティックスで彼のスカウトを務めたのが評価され、90年〜2000年までシカゴ・ホワイトソックスのGMを務めた。現役時代は、ホワイトソックスで投手だったということと、最初の夫人を白血病で亡くした後、昨年2度目の夫人(えらく若いらしい)と再婚しそうだ。 

Former His G.M.    

Sandy Alderson

 83年〜99年まで、オークランド・アスレティックスのエグゼクティブ・ヴァイスプレジデント、GMを務める。プロ野球の選手経験のまったくない弁護士出身の異色のGMであった。オルダーソンの所属していた弁護士事務所の経営者の父(リーバイス社のハース氏)がオークランド・アスレティックスを買収し、事務所ごとチームの経営に携わることになったのだが、向いていると言われGMの仕事を任されることになった。80年代初めに、後に3年連続ルーキーオブザイヤーとなったホゼ・カンセコ、ウォルト・ワイス、マーク・マグワイアらをドラフトで獲得し、86年には、ホワイトソックスを解雇されたばかりの彼を監督に招聘、88年〜92年の中心選手を続々トレードで獲得し、アスレティックス黄金時代の基礎作りをした。またシーズン終盤の89年のリッキー・へンダ-ソン、90年のウィリー・マギーとハロルド・ベインズ、92年のホゼ・カンセコのトレード、90年のドラフトで大学進学希望だからと嫌がるトッド・ヴァンパッペル投手をドラフトで指名、獲得し、一躍名を馳せたのだった。しかし、これは推測だが、何と言ってもプロ経験のないことから、トレードの根回しなどは彼が深く関わっているはずで、オルダーソンは弁護士だけに交渉事に長けているのではと思う。とにかく2人も弁護士資格を持った人がいるチームがあるだろうかと、評判だった。
海兵隊でベトナム戦争に従軍、除隊後にハーバードロウスクールに入学し弁護士資格を取ったという、これまた異色の経歴を持ち、60年代のオールドファッションカーに乗り、常にノータイ、ストライプシャツ(労働階級のシンボル)姿で、ドラフト選手との契約に赴いたという。尚、ハーバード大学法学大学院出身の弁護士は特別に「Harverd Lawyer」と呼ばれているということを、オルダーソン氏のおかげではじめて知ったのだった。2000年〜05年まで、MLB機構のExective Vice Presidentとして活躍した後、2005年4月、San Diego PadresのCEOに就任した。05年8月のネットのUSA TODAY紙の記事によると、1947年生まれで成人したお子さんが2人、長男はオークランド・アスレティックスのスタッフだそう・・・。

彼の悪口を言った方々

Rickey Henderson

 1958年12月25日、イリノイ州シカゴ生まれ、カリフォルニア州オークランド育ち。89年6月21日、3対1のトレードでヤンキースからアスレティックスへやって来てその年のALCSプレイオフでは大活躍し、シリーズMVPを獲得、もちろんワールドシリーズ優勝にも貢献し、90年には当時最強といわれたアスレティックスのトップバッターとして活躍、3年連続アメリカンリーグ優勝に貢献したとして、阪神タイガースからデトロイト・タイガースへ移り、メジャーリーグで久々にシーズン51本ホームランを記録したセシル・フィルダーを抑えて、アメリカン・リーグMVPに輝いた。
この大活躍についてBSでは池井優教授が「水が合ったんでしょうかね〜」と、曖昧な感じの解説をされていたが、リッキーはヤンキ―ス時代、悪名高いジョージ・スタインブレナ―オーナーにいぢめられ、ニューヨークのマスコミにも叩かれとすっかりやる気をなくしていたのに、彼はリッキーにやる気を起こさせるように「プロの待遇」をし、リッキーが意気に感じたのが真相だと思う。
89〜93年までアスレティックスに在籍していたが、93年チーム状態の悪化により、7月にトロント・ブルージェイズに緊急トレードに出された。そのとき彼は、「契約がうまくいけば、リッキーはオフには帰って来る」とコメント、その通りになった(ブルージェイズでは活躍しなかったこともある)。尚、リッキーのNo1ファンである9歳のエリンちゃんとの交流が話題になったのはこのときで、わがままだ自分勝手だ目立ちたがりだ性格が悪いと誰もが認めるリッキーが、ファンにはとても優しいことが明るみに出て、みんなを驚かせたのであった(SI誌のコラムに取り上げられたくらいだ)。なんでもオンデッキにいるときも観客席から話しかけられると愛想良く話し込んでしまい、チームメイトがファウルボールが当たらないかと心配して注意するほどだそうだ。
しかし、96年に彼がセントルイス・カーディナルスの監督に就任した後、リッキーもサンディエゴ・パドレスに移ったのだが、春のキャンプ中に彼が人種差別じみたことを言った(たしか)と言って話題になった。それに対して彼は、「そのときクラブハウスにいたものはみんな知っている」事実ではないと反論、「リッキーはいい選手だけど、性格がこれだから〜」と、大人の反応を見せたのだった。そのシーズンのNLDSで、カーディナルスはパドレスと対戦したが、結局カーディナルスのSWEEPに終わった3ゲーム目の最終回、D Eckersley投手に対してリッキーは出塁し盗塁もしたが、試合に関係ないとばかり牽制球も投げてくれず見向きもされないで、寂しそうに2塁に立っていたのが忘れられない。やっぱりセントルイス持ち込み選手になれなくて寂しかったのかも???
2001年、最終ゲームで3000本安打を達成、その2日前にはタイ・カッブの最多得点記録を更新(現在17歳になりサンディエゴ郊外に住むエリンちゃんもスタンドにいて、達成後、リッキーと抱き合ったという)、アグレッシブなヘッドスライディングがウリで、82年のシーズン最多盗塁など数々の記録を持つ、言わずと知れた歴代最多の盗塁王だが、ルー・ブロックの記録を更新し「これでリッキーは名実ともにNo1だ」と言った(とされている)同じ日、ノーラン・ライアン投手が7度目のノーヒットノーランを達成したのはリッキーにとって実にタイミング悪かった。ライアンはあれだけの大記録なのに、「テキサスの地元ファンの前で達成出来てうれしい」という、このうえなく謙虚なコメントだったことで、リッキーはなんちゅう傲慢さやと眉をひそめられた。このときUSA TODAY紙に、アスレティックスの当時のオーナーが、リッキーの記録達成の感謝の印にリッキーの名前であちこちに多額の寄付をし、その寄付先の病院などのリストがずらりと載っていたのには感心した。キリスト教徒の教会への感謝献金みたいなもんだろうか?
また日本の盗塁王福本豊氏とはけっこう仲が良く、来日経験もある。リッキーが福本氏の盗塁記録を更新するとき、福本氏は「よし見に行ったるで〜」と言い、言葉どおりにオークランド・コロシアムでの記録更新に立ち会ったので、リッキーは「約束を守ってくれた」と感激して記念のベースにサインし、福本氏に進呈したのだった(福本氏は大感激し、日本の野球殿堂に寄贈したという)。これ、関西ローカルの番組で見たが、福本氏は「リッキーもな、忙しいから会ってくれへんか思たら、土産持っていく言うたら会うてくれたわ〜」と冗談を言っていた。ゲーム前の映像だと思うが、リッキーは愛想良く福本氏をバッティング練習に誘ったり、お嬢ちゃんたちへというお土産も嬉しそうに受け取っていた・・・。
1976年、オークランド・アスレティックスにドラフト四巡目で入団、79年メジャーリーグ昇格、85年、ヤンキ―スへトレード、89〜95(93年、3ヶ月だけブルージェイズ)、96〜97パドレス、97年8月エンジェルスへトレード、98年アスレティックス、99年ニューヨーク・メッツ、00年5月メッツ解雇後シアトル・マリナーズ、01年パドレスに在籍、02年はレッドソックスでシーズン開幕を向えた。あと1年(アスレティックスで)現役を続けたい希望で、引退後は1塁コーチになりたいそうである。むろん野球殿堂入りは確実で、そのときはオークランド・アスレティックスの帽子を被って殿堂入りしたいと言っている。尚、このHP開設当時存在した、「日本MLB霊長類学研究学会」(研究者は3人であった)では、すでにおりっきー様と信仰の対象として崇められている(大うそ)。
03年5月、独立リーグのニューアーク・ベアーズに入団、メジャーリーグ入りの希望を捨てず、オールスターゲームのMVPを受賞するなど活躍していたが、7月15日、ドジャースと契約、メジャーリーグ復帰、シーズン後解雇。しかし04年5月、再びベア―ズに入団するも、メジャーリーグ復帰はかなわず。05年5月、今度はやはり独立リーグのSan Diego Surf Dawgsで開幕を迎え活躍した。06年2月10日、ニューヨーク・メッツの春のキャンプにインストラクターとして招聘されるというニュースが・・・。

Jose Canseco

 1964年7月2日、キューバ共和国ハバナ市生まれ。85〜92年まで、オークランド・アスレティックスの外野手。85年にメジャーリーグに昇格し、86年、彼が監督に就任したシーズンにルーキーオブザイヤーを獲得、88年には史上初の40盗塁42ホームラン(40−40)を達成し、アメリカンリーグMVPを獲得、リーグ4連覇の中心選手のひとりで、90年のオールスター投票第一位、90年代前半のトップスター選手だった。契約金を自分に投資して、筋肉いっぱいの体を作り上げたという努力家だが、わがまま自己チュ―な性格で、ヤンキ―スタジアムでのゲーム前の練習になかなか来ないので心配していると、タクシーでシェアスタジアムに連れて行かれちゃったと、ヘラヘラとケーキなんか食べながら監督室に来るので、さすがに彼に叱られて罰金を食ったとか、マドンナと付き合っていたとか、スピード違反や拳銃不法所持で逮捕などの逸話に事欠かず、サンフランシスコが舞台で、当時大人気だったシトコム「フルハウス」では、「NOWAY,JOSE!」(いい加減にしてよ、ホゼ)という流行語が生まれたくらいだった。90年のワールドシリーズでは、あまりの不振についに彼がラインアップから外すと(当時の)カンセコ夫人エスターが、地元のラジオ番組か何かで「He is a Pank(ゴロツキとかそんな意味)」と彼を罵り、物議をかもす有り様だった。後で彼に謝ったらしいが、その後もこの調子で、チームの和を乱してばかりいたらしい。
92年8月31日、オークランド・コロシアムでのボルチモア・オリオールズ戦の初回、オンデッキにいたら、ベンチコーチのトミー・レイノルズが、彼が呼んでいると言うので、どうせ走者を進めるのに右へ打てとか言われるのだろうとベンチへ戻ると、彼が「たった今、テキサス・レンジャーズへトレードが決まった」とカンセコを抱きしめたのだという。カンセコは呆然と、「エイプリルフールの悪い冗談だろう?」と思ったそうだが、これが有名なルーベン・シエラ外野手、ジェフ・ラッセル投手、ボビー・ウィット投手とキャッシュとの緊急トレードだった(このときの模様は、当時BS1で放送していたABCNEWSの「WORLD NEWS NOW」深夜番組で詳しく見たのだが、初めて彼のコロシアムのオフィスを見ちゃったので感激したっけ)。
その後レンジャースでは、ケビン・ケネディ監督に気に入られ、「ホゼには、ラテン系の若い選手のチームリーダーになってほしい」と期待された。ケネディがレッドソックスの監督に就任すると、レッドソックスでもプレイしたが、97年、再びアスレティックス、98年トロント・ブルージェイズ、99年はタンパペイ・デビルレイズ、2000年後半はニューヨーク・ヤンキ―スへ、2000年は独立系のニューアーク・ベア―ズでシーズンを迎えたが、その後シカゴ・ホワイトソックス入り、2002年の春のキャンプはモントリオール・エキスポズに招待選手として参加したが、マイナー行きを拒否し開幕を待たずに解雇されたのだった。
98年、FOXNEWSの「FOX SPORTS ON SUNDAY」での生放送インタビューで、それ以前に行なわれた彼のインタビューでの「ホゼは殿堂入りにふさわしい素晴らしい選手だ」と話す彼の映像が流れたが、カンセコは憮然とした表情だった。やはり、あのトレードを根に持っているらしい・・・。
2002年スプリングトレーニング中、モントリオール・エキスポズとマイナー契約したが、キャンプ終了を待たずにマイナー行きを拒否して解雇、その後シカゴ・ホワイトソックスと契約したが、4月に引退、彼は「カンセコは競争心のあるいい選手だが、ケガがなければね〜」とコメントしていた。その後、「MLB選手50%がステロイド使用などの発言で、相変わらず舌禍的波紋を呼んでいる。04年春、ドジャースのテストを受けたが、だめだったみたい・・・。05年、暴露本のような自伝を発表、MLB選手のステロイド使用を巡って下院で公聴会が行なわれるなど、波紋を広げている。06年6月、昨年おリッキー様が在籍された独立リーグのSan Diego Surf Dawgsと契約し、再び野球をしている。また7月半ばのオールスター開けのESPNのニュースによれば、ジョージ・ミッチェルもと上院議員のステロイド調査に協力すると発表したそうである。

Ron Gant

 1965年3月2日、テキサス州ヴィクトリア生まれ。96〜98年までセントルイス・カーディナルスの外野手。95年、彼がカーディナルスの監督に就任直後、フリーエージェントで獲得した選手で、打率は低いがチャンスにホームランが期待できる長打力があり、足の速い外野手で、レイ・ランクフォード、ブライアン・ジョーダンと共に、外野の30−30トリオと呼ばれ、96年の地区優勝に貢献した。
 が、98年オフにフィラデルフィア・フィリーズへ、ジェフ・ブラントリー、クリフ・ポリート両投手とキャッシュと共に、ギャレット・スティーブンソン、リッキー・ボッタリーコ両投手との交換トレードに出された。翌年の春のキャンプでギャントは、あろうことか彼を「人種差別主義者」呼ばわりし、「オジ―・スミスを犬のように扱った」などと非難、ちょっとした騒ぎになった。それに対して彼は、「すべて真実ではないが、(ギャントに対して)訴訟はしない」と、簡潔なコメントをしていた。99年5月に対フィリーズ戦がその年初めてブッシュスタジアムで行なわれたとき、満員のカーディナルスファンのギャントに対する反応は、打席のたびにすさまじいブーイング、それに対して投手交代などで彼がグラウンドに現れると、盛大なスタンディングオベイションで迎えるというものだった。FOXのカーディナルス実況アナのジョー・バックは、じっと観客の反応を確かめているようだったが、ゲーム中盤にようやく「これでどちらが正しいかわかったな」と、ロン・ギャントが言ったことをひとつひとつあげ、「全部本当ではない」と断言していた。また、ゲーム中にマグワイアのゲーム前のインタビューが流れたが、「彼を嫌う選手は、毎日野球をしたくないやつだ」と、珍しく厳しい顔でコメントしていた(もっとも、1塁に来たギャントには、愛想良くしていたが・・)。98年のマグワイアとソーサのホームランチェイス時も、他のチームメイトたちと共に、マグワイアをサポートしチームに溶け込んでいたつもりがトレードされ、寂しかったのでは?と思う。後に、ギャントは彼に謝罪した。
 1987年、アトランタ・ブレ―ブスでメジャーリーグ昇格、91年のブレ―ブスの優勝に貢献し、プレイオフ、ワールドシリーズでも活躍したが、94年オフにオートバイ事故で両足を骨折し、解雇され、95年シンシナティ・レッズと契約、地区優勝に貢献した。2000年シーズン後半に、ケント・ボッテンフィールド投手との交換トレードでアナハイム・エンジェルス入り、02年はパドレスに在籍している。

Ozzie Smith

 1954年12月26日アラバマ州モビール生まれ。カーディナルスの遊撃手。彼が監督に就任する前から、チームの代名詞の大ベテラン大スター選手だった。彼にすれば新任地で優勝を期待される新しいチーム作りの一環として、オジーの打撃成績と年齢を考え、96年のチーム大改造時に若いロイス・クレイトン選手をトレードで獲得しプラトーンで起用しただけだろうが、これがオジーにはカチンと来たらしい。
なぜなら、故パンチョ伊東氏や福島良一氏らの解説によると、オジーはお酒も煙草もやらずに体を鍛え、ホームゲームで1回表に守備に付く際必ずバック転をするくらいのやわらかい体をもち、40歳を過ぎても体力が衰えていないのを誇りにしていたので、優勝の為とはいえ、新任監督が若い選手を入れる=引導を渡された気分だったのであろう。
結局、96年のシーズン終了後、引退を発表し、現在はテレビなどで解説をしているが、春のキャンプの臨時コーチに招待されても彼がいる間はいやだと断わり、未だにクレイトンのことを話題にし、彼とは目を合わさないと、インタビューなどでも広言している始末である。言うまでもないが、彼のほうは関係修復に努めようと色々手を尽くしても効果なしのよう。よくある新任監督とチームの顔の確執、対立を絵に描いたような事件であった・・・。(どちらもファンの私としては、じつに悲しい出来事なのだ)
とにかく、あのヨギ・ベラも「シュタインブレナーがいるかぎり、ヤンキースタジアムには行かない」で数10年、ジョー・ディマジオの臨終間際の「ふたりとも、いい加減に仲直りしろ」で、あのシュタインブレナーと涙ながらに和解したのは記憶に新しい出来事だが、トニー対オジーの今後の展開が注目される・・・(なんちゃって)。
1977年、ドラフト4順目でサンディエゴ・パドレスに入団したが、打撃がよくなく(故パンチョ氏によると)日本行きの話もあったらしい。が、82年2月にカーディナルスにトレード後は、華麗な守備でチームに貢献、Wizard of OZ(オズの魔法使い)と呼ばれ、80年〜92年まで12年連続ゴールドグラブ賞受賞など、数々の記録を残し、守備でミリオンダラーを稼ぐと言われた。82年にはワールドシリーズ優勝にも貢献、また81年〜92年まで12年連続オールスターゲームにファン投票で選ばれていたが、93年は不調のためかバリー・ラーキンにトップを奪われ出場できなかった。そのときの記事によると、「自分の出ていないオールスターゲームなんて見たくない」と、あくまで人が良く優しそうな顔には似つかぬ気の強いコメントを言っていた覚えがある。
97年のカーディナルス開幕ゲームでの福島、藤沢コンビの解説によると、80?年のMLBオールスターチームの来日時、大スター選手は他の人が相手をし、彼らはまだ無名だったらしい若きオジーと一緒にお食事をして、お箸の持ち方やご飯を盛ったお茶碗にお箸をさしてはいけないなど、礼儀作法も教えたと思い出話をされていたのだった。
95年だったか、MLBオールスターで来日したときも、ホームゲームだった東京ドームでバック転をやってみせてくれたっけ。
2002年、殿堂入り資格が出来た最初の年にストレートで、たったひとり殿堂入り選手に選出された。記念式典でもバック転を期待されたが、長いことやってないのでしないそうだ、残念。

Ruben Sierra

 1965年10月6日プエルトリコ自治州、リオピエドラス生まれ。1992〜95年までオークランド・アスレティックスの外野手。有名な1992年8月31日のホゼ・カンセコとのトレードで、テキサス・レンジャースからやってきたのだが、最初は水疱瘡で合流が遅れた。彼のチームへ来ると、ほとんどの選手がキャリアハイの成績を上げるものなのだが、シエラはどうも彼とはうまくいかなかったらしく、珍しく彼と衝突し、彼は「Village Ideot」(田舎モンの白痴だろうか?)と呼んでいた。あら、悪口を言ったのは、彼の方だったみたい・・・。
1986年テキサス・レンジャースでメジャーリーグ昇格、95年にはアスレティックスからニューヨーク・ヤンキ―スへトレードされ、96年にはセシル・フィルダーらとのトレードでデトロイト・タイガースへ、その年のオフにはシンシナティ・レッズへとトレードされている。2000年、ヤンキ―ス入りしたが解雇、再びレンジャースに雇われ久々のホームランを打って話題になり、2001年のシーズンもテキサス・レンジャースでプレイしたが、02年、なんとシアトル・マリナーズ入り、03年テキサス・レンジャースからヤンキースで活躍中である。06年はミネソタ・ツインズでプレイした。南米ではCDを出しているらしく、NHK教育テレビのスペイン語講座で歌っているのをちらっと見たことも・・・。

彼をクビにした方
Ken Hawk Harrelson
   


 イエ〜スを連発するホワイトソックスのおなじみ実況アナ。
86年に1年間だけホワイトソックスのGMを務めたが、そのとき彼を解雇したのが唯一の仕事だったらしく、今でも語り草になっている。尚、オーナーは今でも彼の解雇を後悔していて、機会があればまた彼を雇いたいと思っているとか・・・。

Favorite band
STYX

One of His Close Friend
Bobby Kinght

カレッジバスケットボールの名門インディアナ大学で29年間もヘッドコーチを務め、NCAAの優勝経験もあり、名コーチとして知られている。が、2000年の春に審判に抗議してイスを投げたり(当たらないようにだが)、練習中に選手の首を絞めている(ように見える)VTRが公になったりと、かなり逆上型の性格が問題になっていたが、2000年9月7日、学生に「Hey,What’s Up,Knight?」とキャンパスで声を掛けられて、またまた逆上、学生の腕をひねりあげ「ナイトコーチか、Mr.Knightと呼べ」と、怒鳴ったところ、学生に暴行で訴えられ、大学当局から、もう一度何かあったらクビだと言われていたこともあって、ヘッドコーチを解任された。 彼は、このナイトとは、インディアナ大学でMaster Degreeを取得したビル・ワインバーグトレーナーに、アスレティックス監督時代に紹介されて以来の親友なのだという。 で、学生はコーチを尊敬しなけりゃあいかんと、ナイトコーチに同情的で、コーチ解任後、セントルイスでのゲームの始球式に招待し、クラブハウスでも選手達に紹介したのだが、選手達には、「Hey,What’s Up,Knight?」と言ってお迎えするようにと、きついジョークを言ったとか・・・。
また、2001年の春のキャンプにも招待、ナイトコーチは彼のバッグを運んだり、監督室で記者の前で彼がイスを壁に向って投げるパロディーをやってみせたりしていたが、3月23日、テキサス工科大学のバスケットボールチームのヘッドコーチに就任、その正式発表の記者会見の模様はCNNで番組途中に中継され、26日の、「ラリー・キング・ライブ」にも、テキサス工科大学の学長とともにゲスト出演した・・・(学長もお電話の視聴者も、ナイトコーチと呼んでいた)。

Lou Piniella

1943年8月28日フロリダ州タンパ生まれ。93〜02年までシアトル・マリナーズ監督。デイブ・マガダン選手の従兄としても知られる。
親友かどうかはわからないが、彼の同郷で1歳違い、ジャファーソン高校とジェスイット高校時代からの「ライバル」である。1990年のワールドシリーズでは、予想を裏切って彼のオークランド・アスレティックスをSWEEPしたシンシナティ・レッズの監督だった。が、短気な抑え投手ロブ・ディブルとの、歳を考えないクラブハウスでの取っ組み合いのケンカ(罵り合いはピーピーと放送禁止用語だらけであった)は、何度もスポーツニュースで放映されたので有名だし、91年だったか、ゲーム中にダーリング審判に抗議したときの態度があまりにひどかったらしく、告訴されかけたこともあった。現在も34年連れ添っている夫人の言葉としては、「ルーは42歳だけど、頭の中は4歳児よ」と、本に載っていたのを見たことも・・・。
プロ入りも彼と同じ62年だが、ピネラは大型外野手としてクリーブランド入りし、68年にメジャー昇格後、カンザスシティ・ロイヤルズ、ニューヨーク・ヤンキ―スの選手として活躍、72年にはオールスターゲームにも出場、ワールドシリーズにもヤンキ―スの選手として4回出場したという(うち2回優勝)、堂々たる18年間のメジャーリーグ生活を送ったのだった。
が、「アンパイアの逆襲」(文春文庫)ロン・ルチアーノ著によると、「yの付く日にしか文句を言わない」「1ゲームのうちに4つの塁でサイクルアウトを記録した、メジャーリーグ史上ただひとりの選手」だとか、「ロイヤルズ時代には、火の付いたバットを持ってビルの2階から飛び降りたことがある」とか、「1978年のヤンキ―ス対ロイヤルズの優勝のかかったゲームの7回4対3の場面で、ヤンキ―スのピネラが浅い犠牲フライで本塁に突入し、タイミング的にはセーフだったが、スライディングを試みた彼の脚が宙に浮いていたところをロイヤルズの捕手ダリル・ポーターがタッチしたので、アウトを宣告したら、ピネラは四つん這いになって地面をたたくなど猛烈な抗議を〜」とか、「春のキャンプ中、バッティングケイジのなかで、バットを次々とネットに投げつけ、両手を激しく振りまわして怒りを表しては、ピッチングマシーンに向って悪態をついていた、というが、こういう怒りの爆発は、シーズン半ばでは珍しくないが、春のキャンプで?と聞かれてピネラは、審判に抗議するときの練習をしていたと答えたが、ピネラならそれくらいのことをしても不思議ではない」と、ほとんど今と変わらない、目に浮かぶような紹介がしてあったのだった。
とはいうものの、93年にシアトル・マリナーズの監督就任1年目に、マリナーズ創設初の悲願のシーズン勝ち越しを決めて以後、95年にはアメリカンリーグ西地区初優勝、97年西地区優勝、00年はワイルドカードでALCSに進出、01年はイチロー選手の活躍もあってか、ダントツで西地区優勝を決め、ALCSに進出(ヤンキースに敗退)と、好成績をおさめ、95、01年のアメリカンリーグのマネージャーオブザイヤーを受賞している。自身のサイクルアウトという恐るべき走塁勘のなさとは程遠い、なかなか緻密かつ思い切った作戦を取っておられる。
2001年のオープン戦の最後にカーディナルスがシアトルまで遠征したとき、彼の語ったピネラについての想い出は、タンパの高校選抜でマイアミでのトーナメント、あと1アウトで優勝というときに、ライトを守っていたルーが、センターの守備範囲のフライを取りに行ったあげくに落として、逆転負け、ルーは一晩中部屋に閉じこもって出てこなかった。とか、やはり高校トーナメントでカリフォルニアに遠征し、決勝戦の前日の休みにチームで山登りに行くはずが、「ルーは女の子を追いかけるか何かで、行かないといった」が、思いなおして追いかけてきたけど、急ぎすぎて足をもつらせて転んで足首を骨折、エースで4番でもあったので、翌日のゲームはルーを欠いて負けてしまった。という、いかにも、目の前にうかんできそうな話ばかりだった・・・。
02年オフ、故郷タンパに帰りたいと、マリナーズとの契約を1年残して解約し、タンパベイ・デビルレイズ監督に転身したが、05年不満を言いつつ引退。06年秋、ヤンキ―スの監督か?と報道された後、なんとシカゴ・カブスの監督に就任した。

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