'98 McGwire & Sosa

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 1,OPENING

  98年3月31日、セントルイス・カーディナルスは地元のブッシュスタジアムで、開幕ゲームを迎えた。前年の97年7月31日に、オークランド・アスレティックスからトレードでやってきたマーク・マグワイアは、それまでホームラン34本を打っていたが、96年にも52本を打ってホームラン王のタイトルを獲得していたので、リーグを変わり参考記録ではあるが、61年にロジャー・マリスが樹立した年間最多ホームラン記録61本を破るかと期待されていた。しかし、ナショナル・リーグの投手やバッターボックスに馴染むまで少々時間がかかり、結局カーディナルスでは2ヶ月間に24本ものホームランを打ったが、合計58本にとどまり、記録にはわずかに及ばず、シーズン終了を迎えたのだった。
 が、シーズン終了を待たずしてカーディナルスと正式に契約し、すっかりセントルイスに馴染んだこともあり、体調さえ良ければ、もはや記録更新は時間の問題と言われていたので、今シーズンのマグワイアには、開幕前からかなりの注目が集まっていた。

 とはいうものの、マグワイアにはちょっと心配な点がないではなかった。アスレティックス時代の90年には、デイヴ・パーカーがフリーエージェントで去った後の4番を任されたのだが、「いくら三振してもいい、ホームランを打ってくれれば」という、ラルーサ監督の言葉もむなしく、絶不調が続いた。また1988〜90年、92年の通算4回のプレイオフ出場での成績は、66打数17安打、ホームラン3本、打率2割5部8厘。88〜90年のワールドシリーズに至っては、48打数9安打、ホームラン1本、1割8分8厘の成績しか残していない。7回出場のオールスター戦でも目立たず、ミスター・オクトーバーといわれ、ポストシーズンに強かったレジー・ジャクソンや、ここ一番の代打ホームランでチームに勝利をもたらし、キングと仇名されるジム・レイリッツのような、ビッグ・ゲームでの印象に残る活躍がない。 これは、どうもプレッシャーに弱いのではないか。
また移籍後に不調が続いたように、考え込むタイプなのか、スランプからの脱出には、意外に時間がかかるほうなのである。
 そうこう考えると、騒がれれば騒がれるほど、マグワイアに本当に記録更新が達成出来るのだろうか、期待しても彼には重荷になるのではと、本気で心配したものである。

  ところが開幕ゲームでのマグワイアは、0−0で迎えた5回裏、2アウト満塁の絶好のチャンスに総立ちで大歓声を送る満員の観客の前で、LA・ドジャースのラモン・マルティネス投手から、ゲームを決める満塁ホームランを、軽々とレフトスタンドの中段へ打ちこんだのだ。 この様子はSKYPERFECTVで日本でも生中継され、「歩く大リーグ、しゃべる大リーグ」と仇名される名解説者福島良一氏が「61本への夢を乗せて、マグワイア、第1号ホームランを打ちました〜」と、絶叫された。
 もちろんその瞬間を見た世界中のメジャー・リーグファンは、同じくひとり残らず叫んでいたに違いない。 今年こそマグワイアは、やるぞ。
 現地時間の午後3時過ぎに開始されたゲームは小雨がぱらついていたが、4回裏にはセントルイス名物のゲータウェイ・アーチに美しい虹が掛かっていた。
 これがまさに「The Perfect Season」といわれた、98年のメジャーリーグシーズンの幕開けだった。

  劇的な開幕から3ゲーム連続ホームラン、それもさよならホームランを含め、1ゲームに2本打つことも珍しくなく、まったくこれ以上ないスタートを切ったマグワイアは、シーズンはじめから打つわ打つわ、4月に11本、5月8日にはニューヨーク・メッツの「心のエース」リック・リード投手から、史上最速400号となる今シーズン13号を放ち、5月19日には1ゲーム3本のホームランでシーズン最短の20号を達成するなど、最初から完全な独走体勢に入ったのだった。
 もちろん、彼の特大アーチを見に地元のブッシュスタジアムは満員、アウェイでも観客動員数を増やし、打撃練習にも何千人という観客が詰めかけて、彼が楽々とアッパーデッキへ叩き込む打球の行方を飽きもせずに見つめていたのであった。
 実際それは、投手と捕手のミーティングの時間と重なるので、「時間を変えて」とチームメイトのトム・パグノッツィ捕手がデイヴ・ダンカン投手コーチに嘆願したほどの見物で、翌年には、あまりのマグワイア人気に、自分たちも(女性ファンに声をかけられたい一心で)強打者を目指して特訓に励む、情けないグレッグ・マダックス、トム・グラヴィン両サイ・ヤング投手を描いた「Slugger Wannabe」という、お笑いCMが作られたくらいだった。    

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2,BEHIND THE BIGMAC

 86年にメジャーリーグに昇格、87年にはホームラン49本を打って新人王とホームラン王を獲得、当時、史上最強といわれたオークランド・アスレティックスの中心選手として、プレイオフでの優勝4度、ワールドシリーズ優勝1度を経験したマグワイアは、その後もとんとん拍子で来たわけではなかった。
 チームの方も、91年は3塁手のカーニー・ランスフォードが、オフシーズンにスノーボードの事故で重傷を負いシーズンを棒に振ったことと、さすがの投手陣にも年齢的な衰えが見え始めたことで、優勝戦線に加われなかった。翌92年の春、マグワイアはヤギ髭をたくわえて登場し、なかなか好調なシーズンを送ったのだが、それは、BSの大リーグ中継の富沢宏哉氏の解説によると、新打撃コーチ、ダグ・レイダーの「ボールをよく見て打ちなさい」というアドバイスが良かったからだとか。
 そのシーズン、チームはアメリカン・リーグ西地区優勝。しかしプレイオフでトロント・ブルージェイズに敗退、マグワイアもテキサス・レンジャースのホアン・ゴンザレスに、ホームラン王のタイトルをさらわれてしまい、以後、93、94年のシーズンはチームも低迷、彼も故障に泣き、不本意なシーズンを送ることになった。
 その後、アスレティックスのチームメイトたちと共にウェイトトレーニングを始め、 筋肉強化によってケガを克服し、再びホームランが打てるようになったのだ。
 このケガに泣いた期間のことを、マグワイアは「神様が、今日ホームラン記録を作るためにあのひどい体験をさせたのだ」と語っているので、きっと人間形成にも役に立ったに違いない。
 また、これは推測ではあるが、マグワイアが使用していると話題になったアンドロステジオンも、ウェイトトレーニングの過程で、専属トレーナーが筋肉を作るため、食事についてアドバイスしたり、カルシウムやビタミン剤などのサプリメントのひとつとして薦め、MLBでは禁止されていないので使用していた、ただそれだけだったのではないか。 巷間言われているような、「これさえあれば」的特効薬として、マグワイアが頼ったわけでは断じてないと思う。     TOP

3.TEAM MATES

 さて、カーディナルスは95年秋のラルーサ監督の就任に伴って、大幅なコーチ陣、選手の入れ替えが行なわれ、彼の連れてきたコーチや選手達のあまりの多さに、一時はセントルイス・アスレティックスと揶揄されたほどだった。
しかしマグワイアにとっては、監督はもちろん、デイヴ・ダンカン投手コーチ、彼のバッティング投手も務めるデイヴ・マッケイ一塁コーチ、「命が惜しいから」と、マグワイアが打席に立つと3塁コーチスボックスからはるかに離れたところに避難してしまう、レネ・ラッチマンコーチの他、アスレティックスでの先輩選手だったデイヴ・パーカー打撃コーチとカーニー・ランスフォードもコーチとして、またトッド・ストットルマイヤー投手などもいて、まるで実家に帰ったように?顔なじみが多かった。
 ということは、ブライアン・ジョーダン、レイ・ランクフォードといった、もともとのカーディナルスの選手達のほうも、マグワイアがやってくる前から、彼がどんな性格なのか、仲間としてうまくやっていくには?を聞く相手には事欠かなかったということだし、マグワイアの方もラルーサ監督が去った後のアスレティックスでは、それまでと違って若い選手達のリーダー格になっていた(こういうことは、どちらか一方だけが気を使ってもだめなものなのです)。従ってカーディナルスへ移っても、彼にとってまったく新しいチームではあるが、気心の知れないボスに変に気を使う必要もなければ、確立した大選手として、ちょっとした誤解から敬遠され肩肘を張った緊張関係になったり、特別扱いがもとでチーム内で孤立することなく、すんなりとみんなに溶け込めたはずで、98年からはアスレティックスのトレーナーだったバリー・ワインバーグまでが、カーディナルスに移って 来たのだった。 
 
 また7月には、ケガでDL入りしたデライノ・デシールズ2塁手の代役として、パット・ケリー内野手が加入したのだが、彼はオフシーズンに一緒に旅行したりするマグワイアの親友で、控え選手としての役目と共に、「マグワイアの球場への送り迎えと、常に彼をリラックスさせること」(カーディナルス実況アナ)という、重要な役目も期待されていたのだった。 
 ということで、マグワイアの新しいチームメイトたちは、彼の記録更新がどんなにすごいものかを理解していて、殺到するメディアの取材にはみんなで協力して応対し、出来るだけ彼の負担を軽くして、クラブハウスでもリラックス出来るようにと、揃って大人の対応をしていたのである。
 チームの成績は低迷していたものの、全員がマグワイアの人柄や、誰もが畏敬するバッティング技術、ホームランを打つパワーに心から感心していたので、マグワイアの個人記録と突き放して考えずに、彼とシーズンを一緒に体験し、その場に立ち会うことを喜び、共に記録を更新するような気持ちで、チームがひとつにまとまっていたに違いない。
 
 また、普段はカリフォルニアのマグワイアの離婚した夫人である母親と住んでいるが、学校の休みになるとセントルイスにやって来て、父親と同じ背番号を付けてバットボーイを務める息子のマシュー君との微笑ましい姿が話題になっていた。マグワイアがルーキーの頃、1シーズンでホームラン50本か?と期待されたシーズン最終日に、「ホームランはいつでも打てるけど、最初の子どもの誕生は一生に一度だから」と、ゲームに出場する代わりに出産に立ち会った「彼が50本目のホームラン」(マグワイア)というマシュー君は、10歳に成長していた。
 マグワイアは、マシュー君がバットボーイのゲームではよくホームランを打ったので、実況アナが、「マシュー君、ずっとセントルイスに居てくれないかなあ?」と、半ば本気で言ったものだった。
 こういったことを考えると、必要以上にメディアに騒がれる以外は、マグワイアは野球だけに集中できる、素晴らしい環境に恵まれていたと言えるのではないだろうか。
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(続く)

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