播州ちくさ手漉和紙工房 工房案内

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  紙干し    原料     播磨紙
                                                                播磨紙 壇紙


播磨紙 〜播磨国 敷草村〜 千種町 和紙の起こり


播州ちくさ手漉和紙工房(ちくさ雁皮紙)

 

 

 

  奈良期

 
千種町での紙づくりの起こりは、奈良時代(当時 敷草村)で当時、法相宗の開祖、義淵が同町を訪れ、布

教とともに紙づくりの技法も伝えられたと考えられており、奈良の寺院にその記録が残っています。 

  仏教の伝来は、信仰だけでなく日本文化に大きな進歩をもたらしたといえます。

  
 また、和紙原料(楮、雁皮、麻、ノリウツギ・・・これらを地元ではカゴと呼んでいた)における天産物に

恵まれた風土でもあったことから紙づくりがこの地に根付きました。

 この頃から、紙原料を採取するために山に入る者や木地職人と、製鉄作業をする者との間で

たびたび争いが起きていたようです。

  山には両者にとって大切な資源があり、清らかな水を汚してしまう製鉄作業とは対立関係にありました。


その時代、播磨(兵庫県西部)で産した和紙は「播磨紙」と呼ばれ、技術の高さが評され日本の代表ともなる

品でありました。正倉院文書には「播磨紙」のほか国名を冠した経紙や、「播磨簀」の名が記載されています。

 しかも、この地では楮が主流の時代に斐紙(雁皮紙の古称)を製造していたという記述もあります。





                   イラスト
 

  ≪平安期≫

 平安期に入ると、千種街道を念仏修行の為幾度と往復した教信上人がさらなる和紙づくりを伝授したとも

推測されています。

  
 斐紙の名で奈良期に誕生した日本独自の雁皮紙は、この時代さらに技術が高まり「薄様」と呼ばれる

流し漉き技法による薄い紙へと発展しました。

 「薄様」はとりわけ宮廷の女性に愛用され和歌や消息を書いたり、懐紙として使うなど、平安文化を

華やかに彩りました。







 ≪江戸期≫

「地志播磨鑑」によると、紙子紙イラストの受注も多く、加工のために、漉いた紙は姫路へ納品されていた

とあります。

 町内には享保14年、紙づくりをしていた紙屋助左衛門イラストが発起人となって建立した同町最大級の

規模となる供養塔が西方寺に現存します。 (助左衛門氏の功績を讃え、大阪の商人が建立したという説もあ

る。)


     千種町には、現在も西山の小字に「紙屋」という地名が残っています。

         風景「紙屋」地区

              


 ≪明治期〜昭和期≫

 同町千草で石原氏が紙漉きを行い、ついで山本氏が楮を原料とする紙づくりを始めました。

農閑期の現金収入として楮や三椏を栽培することが盛んでしたが、昭和30年頃伝統は途絶えました。

 以後、杉の植林が奨励され見事な広葉樹の千種の山は杉山に変わり、それとともに紙づくりの原料も

殆どみられなくなりました。


 ≪平成≫

 平成4年にその伝統を復活させるべく、名塩・備中で修業を重ねた吉留新一が千種の地で開業、

同時に「播磨紙伝承研究会」を設立しました。日本銘水100選の一つ千種川源流の水を使い、

手漉きの本流を忠実に守り、雁皮紙を主に楮や三椏紙を漉いています。


              看板

 雁皮は紙の王様といわれ日本独自の紙料です。滑らかで緻密、虫がつきにくく耐久性のある美しい紙で、

奈良時代から上層階級では永久保存を期待する書冊をつくるのに愛用されました。

 当工房の雁皮紙はその特性ゆえ、主にかな料紙に最適で、具引きした時の発色の良さ、

度重なる塗りに耐える強靭さ、そして保存性に優れています。

 また、その確かな手法から文化財補修用紙としても認められ、国内外を問わず使用されています。

 

   
   
              原料雁皮


 永久保存が可能な紙。それをつくるのは並大抵のことではありません。自然の素材を使い、

自然の力を借りようやく出来たものの中からさらに選別され、製品となります。
  

 紙すきの仕事は、春は雁皮の収穫、夏は黒皮剥ぎ、秋は雁皮の煮熟・下ごしらえ、冬は塵より・紙漉き、

と一年中自然に左右される事ばかりです。思うような紙が出来ず、悔し泣きした年もあります。

 しかし手を抜くわけにはいきません、なぜなら、太古の昔より、現代に存在する和紙が

教えてくれているのです。「伝統の手法を守れ、それしか残す道は無い」と。

 こだわりを保ち続ける苦悩、しかしそこから産まれ出た和紙の美しさに魅了され、

また、紙を使って頂いた方々からのお言葉に励まされ、今日があります。

 



 これまで千種ではこの様な素晴らしい紙づくりの歴史がありながらあまり語られる事がありませんでした。
 
私どもは僅かに残る書物と生き字引の方を頼りに今後も調査を続け、埋もれていた伝統を探ってまいります。
  
 同時に自らの紙漉き道を極めるため日夜努力し、播磨国の紙づくりに足跡を残して
後世に引き継ぐ所存です。


 
     これからも変わらぬ技で変わらぬ紙を漉き続けてまいります。

       わたしは、1000年後の自分の紙に自信を持っています。

                               

                                播州ちくさ手漉和紙工房 
   
                                   吉留 新一





教信上人  藤原鎌足公五代の末裔として天応元年(781)誕生。奈良興福寺において出家、修行するもこの
        世の財宝や名利の儚さを悟り、一切欲心を捨て念仏を唱えつつ西国へ旅立つ。
        当時にあっては、京都や奈良から西国へ行く道は海路か千草街道であったらしく、上人は人を助
        けながら念仏を勧め、八十六歳で往生を遂げるまで幾度となくこの街道を往復された。 

           千種町 教信院西蓮寺・・・ 浄土宗に属し、永く教信上人を供養する念仏道場



播磨紙   播磨(兵庫県西部)に産した紙。正倉院文書には播磨紙のほか国名を冠した経紙や播磨簀がみえ
       る。宝亀五年(774)の図書寮解に斐麻五斤と記されていることは楮紙だけでなく雁皮紙も漉い
       ていたことを示している。また延喜式によると紙の上納量は美濃についで多くとくに薄紙との記述
       もありほとんど厚い紙を漉いていた時代からみても、技術水準の高さがうかがえる。

    製品復元 播磨紙    製品復元 播磨紙    製品復元 播磨紙
              (雁皮)                (楮)                 (楮)壇紙

紙子    楮紙で作った衣。十文字漉きして強く作った紙子紙をこんにゃく糊で継ぎ合わせ,柿渋を塗ってこん
       にゃく糊を薄く引き、打ち揉んで夜露に当てる作業を繰り返した物を衣服に製する。日本では元亨
       釈書に永延二年(988)性空上人が播磨の書写山の草庵で用いたとされており、初期には修行僧
       が着る物であったが、中世には武家をはじめ庶民にも広まった。

         紙子紙紙子紙   紙子紙子



紙屋助左衛門  大阪府和泉地方の出身。当時和泉地方では、各河川流域に豊富に自生する雁皮や楮などを
          利用して和紙づくりが行われていた。優れた紙質であったため、御料紙として納められていた


雁皮        古代から日本独特の製紙原料とされている植物。ジンチョウゲ科。栽培は難しい。
          靱皮繊維の長さは平均3.16ミリ、幅は0.019ミリと細かく、その質は優美で光沢があり、
          平滑にして半透明、しかも粘着性に富んでいるので、腰の強い緻密な質の紙となる。
         

 

播州ちくさ手漉和紙工房

 〒671−3232

兵庫県宍粟市千種町河内533−1
                           Email chikusawasi@ymail.ne.jp

рO790−76−3716

代表 吉留(よしとめ) 新一



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