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ステンドグラス

Stained glass

ステンドグラス
製作 三浦啓子氏(西宮市甲陽園ロクレールプロダクション)
東京国立博物館平成館 神戸元町商店街アーケード入口
宝塚市中山寺納骨堂壁画など多数


西宮市の善教寺のご住職(住職の大学の先輩)が園長を務めておられるパドマ保育園の講堂に、
三浦先生が初めて手がけられた仏さまが東からの鮮やかな光を背に子供達を見つめておられます。
この仏さまとの出会いがグラスアート作家の三浦啓子先生との出会いでもありました。
初めて工房をお尋ねすると、数多く手がけられたグラスアートのあの力強い作品群からは想像出来ない華奢でたおやかな先生がいらっしゃいました。
個展を控えて大変お忙しい時期でしたが、私共の話を聞いて下さるなり私の両手をしっかり取って
「ビジネスではなく心意気で制作させていただきます。」と言って下さったのです。

本堂の欄間にステンドグラスを入れることは第十七代住職結城令聞の建築当初からの想いでしたが、
善教寺浄土真宗開基五百年という記念すべき年を待って、漸くその機が熟しました。
浄土真宗の正依の経典「仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)」に阿弥陀如来の脇侍として「観世音菩薩・大勢至菩薩」が出て来ます。
観世音菩薩は一切衆生を救済する仏で、大勢至菩薩は阿弥陀仏の智をつかさどり、共に阿弥陀仏の相(すがた)、働きを表すと言えます。
本堂の欄間にはこの二菩薩(右・観世音菩薩、左・大勢至菩薩)が描かれています。
向拝(本堂入り口)上部の窓は阿弥陀経に出てくる浄土の鳥「孔雀」です。
夜ともなれば鐘楼、門扉、塀のライトアップと共に一層鮮やかな輝きを見せてくれることでしょう。
そして本堂内全体がみ仏の光明で満たされるように、周囲の窓は様々な色ガラスが使われています。
朝に夕にこのガラスを通して光がどのように変化してゆくのかとても楽しみです。 (雅亮)

ステンドグラス 

五百年

 善教寺の草創は、寺伝では関東で大きな勢力を持った結城一族の結城直朝が
十五世紀前半関東を離れ、曲折を経て姫路幅中村に落居し草庵を結んだのが始まりと言われ、
その後裔である教薫が永正三年(一五〇六)、天台宗から真宗へ帰依したと伝えています。
それは本願寺第九世実如上人の時代になります。
木仏や御絵像に記された裏書きはそれぞれ寺の歩みを語り継いでいると思われますが、
元和九年(一六二三)善教寺祐心は木仏の裏書きを願出で本願寺で
居十二世准如上人から裏書きの下附を受けています。

更に祐心は寛永十八年(一六四一)「蓮如上人真影」、寛永十九年(一六四二)には
「親鸞聖人御影」の下附を願い本願寺第十三世良如上人から下されています。
この時善教寺所在地は木仏裏書きには「播州飾東郡国ヶ庄福中村」とあり、
寛永十八、十九年下附の裏書きにはそれぞれ「福中町」「福中」となっています。

延宝元年(一六七三)には善教寺祐玄が願主となって「三朝高僧真影」「上宮太子御影」が
本願寺第十四世寂如上人から下附され、この時の善教寺所在地名は「姫路福中村」です。
寛政三年(一七九一)には善教寺普聞が願主となり、本願寺第十八世文如上人から
「大谷本願寺親鸞聖人之縁起」が下附されています。この時善教寺の所在地は記されていませんが、
姫路藩主第二次本多家時代(天和二年~宝永元年(一六八二~一七〇四・将軍綱吉の時代)に描かれた
「姫路城下絵図」を見ると、善教寺所在地は西塩町に記されているところから、
十七世紀末以降に福中町から西塩町に移ったと思われます。

本願寺は慶長七年(一六〇二)徳川家康が本願寺第十一世顕如上人の長子、
教如上人に寺地を寄進して以来東西本願寺への分裂が進みました。
この影響は地方教団にも及び、東本願寺に属する寺院も多くありましたが、
善教寺はそのまま本願寺派(西)直末として留まりました。

文化文政年間の記録によると本山へ出仕することも多く宝物殿の管理も勤めました。
十七世紀後半から長らく西塩町にあった善教寺は、昭和二十年七月(一九四五)の
空襲により焼失しましたが、幸いご本尊、御絵像などは難を逃れることが出来ました。
昭和五十八年(一九八三)善教寺十七代令聞の時ここ城北の地、
西大寿台に寺基を移し、今日に至っています。

鳥籠鐘楼


鐘楼(門扉・塀)
設計 井ノ口泰氏(京都SUS設計事務所)
1983年完成の本堂客殿庫裏建設時の設計にも携わる
施工 株式会社神崎組
1983年完成の本堂客殿庫裏も建設施工


鳥籠鐘楼

平成十八年(二〇〇六)に善教寺が浄土真宗になって五〇〇年を迎えるにあたり、記念事業として計画され平成十五年の暮れに完成。

鐘楼、門扉、塀の設計を担当して下さったのは、京都のSAS設計事務所の井ノ口泰先生です。
井ノ口さんは善教寺十八代結城雅亮の大学時代の恩師、井ノ口泰淳先生のご子息であり、ご自身浄土宗のお寺の住職であり、二十三年前、善教寺の本堂・庫裏・客殿を設計して下さった中村建築設計事務所の青年設計士でした。

二十有余年ぶりに当山にお越しになった井ノ口さんは、自分の手がけた建物を見て、まるで我が子に云うように「昔はいい仕事をしていたなあ!」と。

撫でるようにあちこちを触りながら盛んに懐かしがり、建物が意外と古くなっていないことに驚いておられました。
井ノ口さんは大変意欲的にこの仕事に取り組んで下さいました。
デザインは四つ提示され、最後の決定は私に任されました。

検討すればするほど迷いましたが、鐘を打つ場所が螺旋階段の途中に設けられ、そのステップがどこまでも上に続いてやがて屋根の形に移行するイメージが特に気に入って選んだのです。
(先生の一押しも同じだったことはあとで知りました。)
いよいよ建築作業に入ってからは週に一度は京都からお越しになり、施工に当たった神崎組の現場監督、業者、そして私も加わり話し合いが持たれました。
誰もが出来るだけ設計図をより良く実現するために、もっと云えば設計図を超えて更に良いものが出来るよう、時には厳しく、また或る時は笑い声を交えながら一生懸命でした。
私は皆さんの話を聞いているだけでしたがほんとに楽しいひと時でした。

皆さんの熱い努力のお陰で近代的なすばらしい鐘楼が完成し、朝夕に優しく暖かみのある鐘の音が響いています。

門扉は厳しい現場状況を何とかクリアーしてリモコンによる自動開閉式にしていただきました。
塀は本堂と繋がりのあるデザインで、門と塀をあわせると二十二箇のライトが点灯し、ライトアップされた鐘楼と共に夜の風景をお寺とは思えぬ華やかなものにしています。
戦後三十八年にして戦火の下灰燼に帰した建物が再建され、戦後五十八年を経て供出によって失った梵鐘を新たに制作し、鐘楼が建立されました。

「世のなか安穏なれ 仏法弘まれかし」

の親鸞聖人のお言葉どおり、仏法のもとに人々の心が平らかに争いのない社会を目指して行くべきことを、
鐘の音と共に心新たに思うことです。 (雅亮)

鳥籠鐘楼


鐘楼(門扉・塀)
製作 西澤吉太郎氏(滋賀県五個荘鋳物師 県指定無形文化財)
2003年完成

鳥籠鐘楼

善教寺の梵鐘は、滋賀県五個荘町の鋳物師、県指定無形文化財・西澤吉太郎さんの制作である。
旧中仙道に面した旧家には、 門のところに梵鐘が一つ無造作にポンと置かれているだけ。

「宣伝はしてはならない。看板を出してはならない。鳴り物以外は作ってはならない。」

という家訓をかたくなに守り続ける七代目だ。
根っからの職人で無口な西澤さんは、私達が話しかけても「エーッ・・・」と考え込んでしまうシャイな人である。
そんな西澤さんと対照的なのが奥さんの寛子さんだった。

お二人の誠実な人柄に魅せられた私達は、
帰り際に庭に吊してあった梵鐘の音色を聴いたとたん言葉を失ってしまった。
規則正しい余韻、 その波長が目に見えるかのようだったからだ。

私達は決まりかけていた大手のメーカーに丁重に断りの電話を入れた。
作業は順調に進み、「鋳込み式」にはバス一台で門徒が参加し歓待を受けた。

その直後、寛子さんから「骨髄異形性症候群で余命一年」という告知を受けていることを知らされた。

「私はどんなことがあっても、善教寺さんの鐘楼が出来るまでは元気でおりますから。」

といつもと変わらぬ笑顔だった。


二〇〇三年の年明け、容態悪化の知らせを受け駆けつけた私達に淡々と 「この病気の有り難いところは、自分で自分のお葬式の準備が出来ることです。 人生の最後に結城さんご夫妻と素晴らしい御縁をいただいてこんなに嬉しいもう充分生かされました。」

と話され、
厳しい冷え込みの中私達の車が見えなくなるまで手を振っていた。寛子さんが往生の素懐を遂げられたのはそれから二ヶ月後であった。

「梵鐘にいのちをかけし吾が夫の匠なる手にそっと頬寄す」(病床にて)

梵鐘は、株式会社神崎組社長、神崎文一郎さんによる建立であるが、氏の申し出により門信徒一同とさせていただいた。
多くの善意に支えられて善教寺の梵鐘は朝夕タイマーで正確に刻を告げている。 (思聞)

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