鐘楼(門扉・塀)
設計 井ノ口泰氏(京都SUS設計事務所)
1983年完成の本堂客殿庫裏建設時の設計にも携わる
施工 株式会社神崎組
1983年完成の本堂客殿庫裏も建設施工
平成十八年(二〇〇六)に善教寺が浄土真宗になって五〇〇年を迎えるにあたり、記念事業として計画され平成十五年の暮れに完成。
鐘楼、門扉、塀の設計を担当して下さったのは、京都のSAS設計事務所の井ノ口泰先生です。
井ノ口さんは善教寺十八代結城雅亮の大学時代の恩師、井ノ口泰淳先生のご子息であり、ご自身浄土宗のお寺の住職であり、二十三年前、善教寺の本堂・庫裏・客殿を設計して下さった中村建築設計事務所の青年設計士でした。
二十有余年ぶりに当山にお越しになった井ノ口さんは、自分の手がけた建物を見て、まるで我が子に云うように「昔はいい仕事をしていたなあ!」と。
撫でるようにあちこちを触りながら盛んに懐かしがり、建物が意外と古くなっていないことに驚いておられました。
井ノ口さんは大変意欲的にこの仕事に取り組んで下さいました。
デザインは四つ提示され、最後の決定は私に任されました。
検討すればするほど迷いましたが、鐘を打つ場所が螺旋階段の途中に設けられ、そのステップがどこまでも上に続いてやがて屋根の形に移行するイメージが特に気に入って選んだのです。
(先生の一押しも同じだったことはあとで知りました。)
いよいよ建築作業に入ってからは週に一度は京都からお越しになり、施工に当たった神崎組の現場監督、業者、そして私も加わり話し合いが持たれました。
誰もが出来るだけ設計図をより良く実現するために、もっと云えば設計図を超えて更に良いものが出来るよう、時には厳しく、また或る時は笑い声を交えながら一生懸命でした。
私は皆さんの話を聞いているだけでしたがほんとに楽しいひと時でした。
皆さんの熱い努力のお陰で近代的なすばらしい鐘楼が完成し、朝夕に優しく暖かみのある鐘の音が響いています。
門扉は厳しい現場状況を何とかクリアーしてリモコンによる自動開閉式にしていただきました。
塀は本堂と繋がりのあるデザインで、門と塀をあわせると二十二箇のライトが点灯し、ライトアップされた鐘楼と共に夜の風景をお寺とは思えぬ華やかなものにしています。
戦後三十八年にして戦火の下灰燼に帰した建物が再建され、戦後五十八年を経て供出によって失った梵鐘を新たに制作し、鐘楼が建立されました。
「世のなか安穏なれ 仏法弘まれかし」
の親鸞聖人のお言葉どおり、仏法のもとに人々の心が平らかに争いのない社会を目指して行くべきことを、
鐘の音と共に心新たに思うことです。 (雅亮)
鐘楼(門扉・塀)
製作 西澤吉太郎氏(滋賀県五個荘鋳物師 県指定無形文化財)
2003年完成
善教寺の梵鐘は、滋賀県五個荘町の鋳物師、県指定無形文化財・西澤吉太郎さんの制作である。
旧中仙道に面した旧家には、
門のところに梵鐘が一つ無造作にポンと置かれているだけ。
「宣伝はしてはならない。看板を出してはならない。鳴り物以外は作ってはならない。」
という家訓をかたくなに守り続ける七代目だ。
根っからの職人で無口な西澤さんは、私達が話しかけても「エーッ・・・」と考え込んでしまうシャイな人である。
そんな西澤さんと対照的なのが奥さんの寛子さんだった。
お二人の誠実な人柄に魅せられた私達は、
帰り際に庭に吊してあった梵鐘の音色を聴いたとたん言葉を失ってしまった。
規則正しい余韻、
その波長が目に見えるかのようだったからだ。
私達は決まりかけていた大手のメーカーに丁重に断りの電話を入れた。
作業は順調に進み、「鋳込み式」にはバス一台で門徒が参加し歓待を受けた。
その直後、寛子さんから「骨髄異形性症候群で余命一年」という告知を受けていることを知らされた。
「私はどんなことがあっても、善教寺さんの鐘楼が出来るまでは元気でおりますから。」
といつもと変わらぬ笑顔だった。
二〇〇三年の年明け、容態悪化の知らせを受け駆けつけた私達に淡々と
「この病気の有り難いところは、自分で自分のお葬式の準備が出来ることです。
人生の最後に結城さんご夫妻と素晴らしい御縁をいただいてこんなに嬉しいもう充分生かされました。」
と話され、
厳しい冷え込みの中私達の車が見えなくなるまで手を振っていた。寛子さんが往生の素懐を遂げられたのはそれから二ヶ月後であった。
「梵鐘にいのちをかけし吾が夫の匠なる手にそっと頬寄す」(病床にて)
梵鐘は、株式会社神崎組社長、神崎文一郎さんによる建立であるが、氏の申し出により門信徒一同とさせていただいた。
多くの善意に支えられて善教寺の梵鐘は朝夕タイマーで正確に刻を告げている。 (思聞)