メジャーリーグでは、ゲーム毎に新しいユニフォームにソックス、もちろん帽子も新品のはずが、汗しみのついたきったない帽子を被っている投手が多いのに気が付かれただろうか?
これを始めたのは、現代野球ではジョン・ウェットランド投手である。
彼はニューヨーク・ヤンキースに在籍中の1996年、何を思ったのかスプリングトレーニングからシーズンを通してず〜っとひとつの帽子をかぶり続け、62ゲームに登板、2勝3敗43セーブ防御率2.83のキャリアハイの成績でアメリカンリーグのセーブ王となり、ヤンキースは優勝、プレイオフでももちろんしみだらけの帽子で7ゲームに登板、4セーブをあげ、ワールドシリーズでも5ゲームに登板し4セーブをあげて大貢献、みごとにシリーズMVPを獲得。
そのうえにオフのフリーエージェントの目玉として、テキサス・レンジャースと高額契約をしたのであった。
翌シーズンになると、彼にあやかろうとほとんどの投手がきったない帽子をかぶリ続けたのは、言うまでもない。その後はやや落ち着いたようだが、2001年のシーズンもスティーブ・クライン、カート・シリングなどが汚い帽子でプレイオフに進出、シリングはシリーズMVPに輝いたことで、ご利益がいっそう確かになり?もはや習慣のひとつとして定着したのではないかと思う・・・。
尚、創始者ウェットランドの帽子は、クーパーズタウンの野球殿堂に奉納されいまも悪臭を放っているはずである(うははは)。
マウンド上で投手と捕手が会議をするとき、投手がグローブで口元を覆ったまま話しているシーンは珍しくなくなったが、1995年、野茂英雄投手がロサンジェルス・ドジャースで活躍する以前は、メジャーリーグでは誰一人そんな上品なことをする投手はいなかったのである。読唇術で投手の口元を読むコーチがいるかどうか知らないが、日本のプロ野球ではそれ以前から平安朝の貴族のように、投手たちはグローブで口を覆いつつ話すのが常であったので、明らかに野茂投手がメジャーリーグへ持ち込んだ日本の習慣のひとつであろう。彼の真似をして上品になったメジャーリーグの投手たち?日本のプロ野球の影響もあなどれないという典型的な例のひとつであると思う(なんちゃって)。
1991年のナショナルリーグのプレイオフは、ピッツバーグ・パイレーツとアトランタ・ブレーブスの対戦で行なわれた。
ブレーブスはまさかの勢いで、一時は10ゲーム差をつけて西地区(当時、アトランタは西地区だった)のトップだったロサンジェルス・ドジャースを最終戦で追い抜き初優勝、対するパイレーツはそのシーズンを最後にボンズ、ボニーヤなどの主力選手がフリーエージェントでチームを去ることがほぼ決まっていたため、リーランド監督以下、悲壮さも漂うワールドシリーズ進出の最後のチャンスだった。
当時のブレーブスは、万年最下位の特典で良い選手をドラフトで次々と獲得、彼らが一人前のメジャーリーガーになりつつあるときで、目玉のフリーエージェントを高額で獲得するのではなく、ほどほどのテリー・ペンドルトン内野手などの補強もうまくいき、ベテランと若手、無名選手が渾然一体となった勢いのあるチームだった。
で、プレイオフ、ブレーブスは(何ゲーム目かは忘れたが)もう少しで勝利という終盤(9回表だったか?)に、2塁手のマーク・レムキのエラーで同点に(たしか)されてしまった。へたり込むレムキに、キャプテンのテリー・ペンドルトンたちが寄っていき、「まだ、負けたわけじゃないから」となぐさめたという。そのときまでのレムキ2塁手は、はっきりいってずんぐりした特徴のない(ブレーブスには、そういう体型の選手が多かったような?)守備はうまいが、ただの8番バッターだったのだ。見ているこちらも同情したではないか。
次の回のブレーブス攻撃はレムキからで誰もが凡退を思い描き一層悲壮感を増したはずが、そのシーズン2割3分4厘のバッターが、あろうことか予想を裏切る外野オーバーの見事な長打で反撃のきっかけをつくり、しかもそのゲームを勝ってしまったのだった。
これだけならよくある話だが、レムキはその後のゲームでも人が変わったように打撃好調、とうとうブレーブスはフランシスコ・キャブレラの有名なさよならヒットでパイレーツの夢を打ち砕き(ピッツバーグではみんな泣いていたぞ)、ナショナルリーグ優勝、ついにワールドシリーズでミネソタ・ツインズと対戦することになった。
前年最下位同士の対決として有名なこのシリーズは、やはり息詰まる好ゲームの連続で7戦までもつれたのだが、なんとレムキは最初からがんがん打ち続けたではないか。24打数10安打2塁打1本、3塁打3本、打点4、得点4で4割1分7厘、1ゲームで2本の3塁打の記録まで作ってしまったのである。
アトランタの観客の掲げるカードも、「LEMKE FOR MVP」から「LEMKE FOR PRESIDENT」に、なんと「LEMKE IS GOD」にまで昇進した。大統領まではよくあるが、GODとまで言われたのは、後にも先にもレムキだけだと思う。とうとう最後は敬遠されてしまいペースを乱したようだったが、このシリーズ、もしブレーブスが優勝すればレムキのMVPは間違いないところだった。が、ツインズが勝ってしまった・・・。
しかしこの後、ブレーブスはポストシーズン毎年出場の常連チームになり、レムキはシーズン中は相変わらず2割台の打率ながら、10月になると注目され、けっこういいところで打っていた。新タイプのミスター・オクトーバーだろうか?96年のセントルイス・カーディナルスとのCSでも、逆転勝利に貢献する長打を打ち、レムキの奇跡が続いていることを思い出させてくれた。このポストシーズンの活躍を称して本人は「ボクは、162ゲーム中は休んでいるから〜」と言っていたそうである。最近、ブレーブスがポストシーズンに出場してもいまひとつ覇気がないように感じられるのは、レムキと、もうひとりの縁起もの選手(と呼んでいる)グレッグ・オルソンがいないせいではないかと思う。
レムキのポストシーズンでの活躍は有名だが、そのきっかけがゲーム終盤のエラーであったことは忘れられない。
私がBSでメジャーリーグ中継を見始めた頃、パンチョ伊東氏が甲高い声を大にして解説されていたことがあった。「メジャーリーグではね〜、4番バッターによほどのことがないかぎりバントはさせないんです」
また同じ頃、ロバート・ホワイティング氏もコラムや著書のなかで、日本のプロ野球の送りバントやスクイズの多さに呆れておられた。最初の頃の一時期、BSの「大リーグ中継」では、そういう日本の野球に疑問を持つ視聴者の心を見透かすような的を得た解説をされていたので、日本のメジャーリーグファンは大いに納得しつつ、投手と打者の本当の駆け引き、力対力の勝負を楽しんでいたのであった。そういうわけで、90年のアメリカンリーグのプレイオフ第1戦、1点を争うゲームで当時のアスレティックスの4番バッター、ハロルド・ベインズが7回か8回にバントしたときは、アメリカと同じ、いやそれ以上に驚きをもって受け取られたものだった(実況、解説の方達が仕事を忘れて叫び声をあげておられたくらいだ)。ここというとき、どうしても1点が必要なときにだけ行なう戦法なのだと・・。
ところがここ数年、気が付けばメジャーリーグでもバントをするようになったのである、それもはやい回から・・。それだけでなくゲーム後半でもそれほど見られなかったスクイズが、けっこう多くなったような気もするのだ。「豪快なベースボールはどうなった!せこく1点を取りに行くのがそんなに嬉しいか!」と、ホワイティング氏がビールを煽る様子が目に浮かぶようだ(なんちゃって)。このバント戦法、千葉ロッテマリーンズからニューヨーク・メッツの監督になった、ボビー・バレンタイン監督が持ち込んだ日本みやげで、あっという間にメジャーリーグに広がったのではないかと推察している。ラルーサ監督も取り入れておられるのだ、とほほほ・・・。
その1、ウィル・クラークとラファエル・パリメイロ
ラファエル・パリメイロ一塁手は、93年オフにテキサス・レンジャースでフリーエージェントになったが、そのままレンジャースに残るつもりだったらしい。が、球団は11月にフリーエージェントになった元サンフランシスコ・ジャイアンツのスター、ウィル・クラーク一塁手と契約、むっとしたパリメイロは12月にボルチモア・オリオールズと契約したのだった。
そして6年後の98年オフ、再びオリオールズをフリーエージェントになったパリメイロだが、またもやオリオールズはウィル・クラークと契約、むかっとしたパリメイロはレンジャースと契約し、テキサスに帰ったのだった・・。
この二人、なんと64年生まれの同い年でミシシッピー州立大学でチームメイトだったというのだ。2度あることは3度あるというが、残念ながら、クラークは00年オフに引退してしまったので、二人共が将来コーチ、監督になれば、再び因縁の契約があるかもしれない・・。
尚、パリメイロがレンジャースに帰ったときのチームのCMは、ユニフォームを着たパリメイロが子供の遊び小屋の入り口をノックすると、男の子がのぞき窓を開けて「ああ、パリメイロか、テキサスのことをどれくらい覚えているかな?」と、人口や面積なんかを聞くのだが、次々と違う顔が質問すると思ったら、イヴァン・ロドリゲスやロイス・クレイトンらだった。パリメイロはおとなしく質問に答え、最後は「Deep in the heart of TEXAS」の歌まで歌うと、やっと小屋の中へ入れてもらえて嬉しそうだった(ユニフォーム姿の大男たちが数人でぎゅうぎゅう詰めになって遊ぶ、異様な光景だったが・・)。
その2、オーレル・ハーシュハイザーと野茂英雄
LAドジャースの1988年のワールドシリーズ優勝の立役者でもあるオーレル・ハーシュハイザーは、59イニング連続無失点記録、サイヤング賞受賞(88年)など、ドジャースのエース、顔だったが、94年オフにフリーエージェントでドジャースを去りクリーブランド・インディアンスに入団、その年インディアンスはアメリカンリーグ優勝チームとなりワールドシリーズまで進んだのだった(フロリダ・マーリンズに負けてしまったが)。彼と入れ替わるかたちで野茂英雄は95年2月、ドジャースと契約、Japanese Piching Sensationと呼ばれルーキーオブザイヤーを獲得、西地区優勝に導く働きをしたのだった。その後1998年6月、オーナーが代わったドジャースは野茂をニューヨーク・メッツへトレードに出したのだが、99年3月25日春のキャンプ最後の頃、ハーシュハイザーはインディアンスを解雇、同日メッツと契約、翌日26日に野茂はメッツをクビになっているのだ。また99年12月、ハーシュハイザーはドジャースと契約、00年6月に解雇され引退したが、メッツ解雇後、あちこちを転々とし、01年にはボストン・レッドソックスで2度目のノーヒットノーランを達成した野茂は01年オフに再びドジャースと契約している。
この二人、もちろん歳も出身大学も共通点はないが、ドジャースを巡っての因縁があるのではないかと思う・・。
その3、オジー・スミスとロイス・クレイトン
1995年のオフシーズンに、セントルイス・カーディナルスの監督に就任したトニー・ラルーサとウォルト・ジョケッティーGMによるチーム大改造の一環で、ロイス・クレイトンをサンフランシスコ・ジャイアンツからトレードで獲得したのは、大ベテランのオジー・スミス遊撃手とのプラトーンを期待してのことだった。このへんの事情はラルーサと仲間達のオジー・スミスの項をどうぞ。手短に言えば、首脳陣が引退間近なベテラン大スターに若い有望選手を預け、懇切丁寧な指導の後に禅譲を期待するのは当然のことだと思うのだが、この場合、オジーは引退する気はなくまだまだやる気だったらしい。ということで、引退に追い込まれたと感じ、以来、「深い恨みを抱いて」ラルーサ監督絶対に許すまじ、殿堂入りした現在もそうコメントしているのだった。
このオジー・スミスの02年の殿堂入りを記念した奉納試合に、なんとシカゴ・ホワイトソックスの選手としてロイス・クレイトンが出場したなんて、なんとも皮肉な巡りあわせではないだろうか。
しかもオジー・スミスがことあるごとにクレイトンの名前も出して恨み話をしているのに較べ、クレイトンは「彼はどうか知らないけど、自分にとって96年はあと一歩でワールドシリーズ出場できた最高のシーズンだった」そのうえ「オジー・スミスは少年の頃からの憧れなので、彼の殿堂入り奉納試合に出場できるのは自分の誇りだ」と、じつに理性的なコメントをしていたのだった。クレイトンはメジャーリーガーというより、まるでウェストポイントのエリート士官候補生のような感じの青年、性格もなんて真っ直ぐなんだろ〜と感動してしまったのである・・(失礼)。
1992年、どん底だった名門ニューヨーク・ヤンキースに新監督が就任した。ずっとヤンキースのマイナーの監督を務め、90〜91年はヤンキースのコーチだった、バック・ショウォルター(当時35歳)である。選手としては一度もメジャーリーグ経験のない監督は珍しくないが、それにしても名門チームに似つかわしくないような無名のジミでくらい感じ、若さのない猪首の監督だったが、なんとあのスタインブレナーオーナーも有能さを認めていたのだった。しかしヤンキースでの3シーズンは、94年は8月まで1位とはいうものの、ストになり(ALマネージャーオブザイヤー受賞)、95年は東地区で優勝するもプレイオフDSでシアトル・マリナーズに負け、あっさりとクビになってしまった。
その1ヶ月後、98年にエクスパンションチームとして加わる予定のアリゾナ・ダイヤモンドバックスの監督に就任したのである。現場監督なのにゲームを4年も離れていいのかと言われたが、チームや球場作りなどに専念していたらしい。
彼がアリゾナで球団の基礎作りをしている間、ヤンキースの後任にはセントルイス・カーディナルスをクビになったジョー・トーレが就任、次のシーズンにいきなりワールドシリーズ優勝、97年はインディアンスにDSで敗退したが、98年〜00年まで3年連続世界一の偉業を成し遂げ、新たなヤンキース黄金期を迎えたのであった。
一方ショウォルターの初々しいアリゾナ・ダイアモンドバックスは、98年ナショナルリーグ西地区5位、99年のシーズンは100勝をあげ優勝、だがDSでニューヨーク・メッツに劇的なさよなら負けを喫したので、ショウォルターもクビになったのであった。そして2001年のシーズン、元選手でそれまで解説者をしていたボブ・ブレンリーが新監督に就任、ランディー・ジョンソンとシーズン後半に獲得したカート・シリングの二大エースの活躍で優勝、プレイオフも勝ち進み、なんとワールドシリーズで、4年連続世界一を狙うショウォルターの古巣ヤンキースと対戦することになったのである。
ワールドシリーズでは、ダイアモンドバックスのエクスパンションチームにありがちな寄せ集めのベテラン選手がねばるねばる、ヤンキースも地元では底力を発揮したが、とうとうダイアモンドバックスが7戦目にマリアノ・リヴェラから奇跡的なさよなら勝ちをもぎ取ったのであった。
ということで、ダイアモンドバックスの初世界一は、エクスパンションチームの最短優勝など記録ずくめであったが、バック・ショウォルターが辞めた後1年で世界一になったふたつ目のチームという記録も加わったのであった。
さて、ショウォルター自身は01年のワールドシリーズ前、複雑な気持ちだが、ワイフは慰めてくれると言っていたが、まるで時間をかけ苦心して料理したご馳走をいただく直前に、他人に全部かっさらわれてしまったような気分だろう、気の毒な役回りの人もいるもんである。
両チームとも、2、3の入れ替えはあるものの選手の顔ぶれががらっと変わったわけではないので、チーム作りはうまいが、監督として選手をやる気にさせる能力に欠けるのかもしれない(かなりの管理主義だと聞いたことがあるもんで・・)。
2002年10月、なんとテキサス・レンジャースと3年契約。約3年後、もし彼がクビになれば、その1年後に注目である(うははは)。
2006年オフ、テキサス・レンジャースをクビになったよ。
1991〜96年まで、ニューヨーク・ヤンキースの控え捕手。猛犬アメリカン・ピットブルテリアのようなごつい風貌に筋肉質のがっしりした体型、それに独特の打撃フォーム、96年のワールドシリーズで優勝を決める逆転ホームランに代表される、「キング」と呼ばれるほどの勝負強さを持った代打の切り札として記憶される選手である。そして1998年、勢いに乗って優勝した感のあるサンディエゴ・パドレスは、やはり彼の活躍でワールドシリーズへと勝ち進んだのだった。このプレイオフの最初のゲーム、全国中継のテレビカメラがゲーム前のパドレスベンチをそぞろに映し、「パドレスって、どんな選手がいたかなあ?」という感じだったが、レイリッツと当時の投手コーチ、デイヴ・スチュワートを捉えるとぴたりと止まり、彼らがポストシーズンの有名人であることを再認識させてくれたのであった。
その彼も家庭では恐妻に恵まれたらしく、「チームでなんと呼ばれていようが、うちでは子供のおしめも換えてもらうし、ゴミも出してもらうわよ」・・。01年のシーズン開幕時はケガをして家でテレビを見ていたのに、「やっぱり変よ、そんなとこにいるのは。はやく野球しに行ってちょうだい」と言われたらしい・・・。
で、何が不思議かと言われると、やはりあの勝負強さ、ここというときに代打ホームランでワールドシリーズに優勝、または勝ち進んだ選手なんてめったにいないんではないだろうか・・・。
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