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亀山本徳寺廟所の全景

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 当廟所は約三百年前(1681)、本徳寺が、英賀から亀山に移築し本願寺一門の東西分流という搖藍をへ、播州での近世西派の本山機能を備え始めた頃に開設された。本徳寺第九代寂円連枝により、宗祖の法脈を血統する実円連枝(本徳寺第二代)以来の遺骨を安置する「お廟」として開設された。まず参墓としての「廟堂」と埋墓としての「歴代墳墓」が設置され、京都「大谷本廟」と同様、本徳寺の飛地境内とされ、「大谷廟所」と記されている。
 古い墓碑の年代調査からも分かるように、開設当初は、限られた本徳寺有縁の寺院・門信徒の墳墓・納骨所としての役割を果していた。1741年(廟堂棟飾記銘)には、廟堂が改築され本格的な廟所の形態が出来上がった。その後、墳墓の増加に伴い、一七四九年(寄進古地図)には境内を拡張し、播州一円の真宗門信徒の総納骨所としての体裁を整え、以来西山廟所(西のお山)と呼ばれ現在に至っている。
 廟所は「室津道」に南面し、播磨灘を一望に見渡せる景勝と上述の伝統ある歴史を有しているが、戦後の本徳寺寺門の混乱と傾斜地による墓域地盤の疲弊が著しく、墓地の総合的な整備と管理が望まれていた。一九八五年から一九九二年の七年を費やして、墓地の拡張を含む墓所全体の整備事業が着手された。無縁墓石の整理、駐車場の設置、水道や通路の整備、照明灯などの設置が進められた。一九九二年には、廟堂の正面下に名号塔が建立され、播州の真宗門信徒の総納骨所であった歴史を象徴的に示している。これらの事業により、墓地環境の保全と仏教的尊厳味を有する真宗墓所が再生しつつある。
 本来、真宗の墓所は、先達によって受け継がれてきた『信心』を拠り所として、ご先祖とともに仏恩報謝を行ずる厳粛な聖地であった。墓所に『ご本尊』あるいは『名号塔』をご安置し、礼拝・讃歎するのは、浄土真宗の伝統的な宗風であり、先の者は後を導き、後の者は先をとぶらうのとおり、連綿とつづく「ご法義相続」の証左でもあろう。生きとし逝けるもの一切の有情になげかけられた「如来」の眼差しのなかに、自らの「いのち」の拠って帰する所以が「この私」に信知せしめられる目覚めの「場」でもある。

亀山本徳寺廟所由来