旅行記11本文
ジャカルタ交通事情 2013年8月
8月16日から1週間インドネシア・ジャカルタの一般家庭にホームステーしながらジャカルタの生活を楽しんだ。日本との違いが多くあったが、その中でも交通事情の違いに驚いた。日本のように市内アクセスに地下鉄、鉄道がない。
バスはあるがこれも交通停滞に巻き込まれて予定通りには走れない。従って市民の交通手段はバイクか車である。インフラ整備に車とバイクの多さが追いついていないのが現状です。時には荷馬車が幹線道路を車と並行して走った時はたちまち後ろは長い渋滞を引き起こす。市内の主要道路は2車線または3車線で整備されているが一歩市内を出ると舗装がされていないと勘違いするぐらいの道路である。おまけに市内を含めて信号機がほとんど設置されていない。歩行者が道路を横断するのも覚悟がいる。車とバイクが走っている中をすり抜けるのである。
市内の幹線道路には少しであるが信号機が設置されている。信号機で止まっていた車が青になると一斉に走り出す。まさにカーチェイスの始まりである。乗用車とバイクが同時に走りだす。特にバイクは車の間隙を縫うようにして右に左に曲がりながら割り込んでくる。これで交通事故がないのが不思議である。こんな状態でも人身事故は少ないように見えた。(1週間で交通事故は1件も見なかった)カーチェイスの運転に慣れてドライブテクニックがうまいのか?しかし、単車と乗用車が入り乱れるので車のスクラッチキズはあちこちに付いている。
こんな状態なので約束の時間に目的地に到着できない。私達の最後のパーティーが、予定では午後5時スタートが2時間遅れの7時になってしまった。しれでも文句を言う人は誰もいなかった。ジャカルタでは時間が遅れるのは一般的のようだった。最後の空港に行く時は2時間ぐらい余裕を持ってホストの家を出発した。交通停滞に巻き込まれたが結果的に余裕を持って飛行場に到着することができた。重要な時間には余裕を持って出発するのがこの国のルールのように思えた
魚釣りは私達にとって子どもの遊びの一つだった。中国の諺に「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」とある。世界各国で釣りの諺があるように古代から釣りは行われていた。それぞれの地域でそれぞれ地域に根ざした釣り方がある。今回サン・アントニオ訪問でも趣味の魚釣りが実現した。事前にホストに連絡したときには魚釣りをしないのでわかないと回答があったが、次のメールで一転知り合いが釣りをしているので魚釣りが可能と連絡がはいった。釣り予定日の前日には釣り道具、仕掛けが準備されていた。釣りをしたことのないホストはたぶん知人から釣り道具を借りたり、新しい釣り針、ワームを購入したり釣り道具一式を用意してくれた。準備してくれた道具の中から明日の釣りを夢見て仕掛けを作った。釣りの当日は朝7時に家を出発して車で約1時間離れた郊外の湖に向かった。ダムで堰き止めて作った人造湖である。広々とした湖面にテキサスの太陽が照りつける中で釣りがスタートした。無心になってキャスチングする至福の時間を過ごすことができた。
私達のホストは釣り道具を準備してくれた以外にも、自慢の手作りの美味しいクッキーをおやつに焼いてくれていた。帰り道はこの湖から流れ出ている川沿いの美しいテキサスのランドスケープを楽しみながらのドライブとなった。魚釣りは料理と同じように、その地域に住んでいる人と魚との知恵比べで生まれた文化である。今回の旅行もサン・アントニオの文化に触れ、太古の人々が行っていたと思われる釣りを体験し、ホストの気持ち温まる親切に触れる旅だった。
カウワイクラブ訪問は親切が心にしみる旅だった。滞在期間中のスケジュールがびっしりと詰まり、デイホストを含めて気持ちのよい対応だった。フリーの時間が欲しくて依頼し、朝の時間帯に自由時間を作り、毎朝、美しいポイプビーチでスケッチしながら贅沢な時間を過ごした。
カウワイを離れる前日に島の西部観光にでかけた。キャニオンの上から流れ落ち数本の滝と、渓流によって削られたワイメア・キャニオンの雄大さを見ていると火山活動で作られたこの島だけでなく、地球の雄大さを改めて思い知らされた。ルート550号線の最終地点にあるカララウ展望台から、削り取られ、鋭く尖った山並みと対象的に青く澄んだ太平洋が印象的だった。自然が作る雄大さに感動した。
しかし、この絶景以上に印象に残った島がある。この青く澄んだ太平洋の向こうにニイハウ島が見える。カウワイ島の南西に位置する面積約200平方キロの観光から忘れ去られた小さな島である。展望台の説明看板には「ネイティブの200人がハワイ語を使い、牛や羊の放牧、蜂蜜の採集などをしながら生活している」と書いてある。ハワイ諸島で唯一ネイティブの人々が生活しているコロニーである。ラファエロさんの話ではニイハウ島の住人はこちらに来られるが、カウワイに住んでいる人は島を訪れることができないそうです。FFでデンバーを訪問した時のアメリカインディアンのコロニーを思い出した。なぜ、他国から来た人々はネイティブの人々と共存しながら歴史を作れなかったのでしょうか。今回訪問した数箇所の博物館はジェムス・クック以降の歴史しかないハワイに見えた。
断っておくが、カウワイFFメンバーを含めて現地の人の親切、朝の道行く人々の挨拶の気持ち良さは、失われている日本人以上だった。また、出発日の早朝から私の無理な願いを聞き入れ、魚釣りのガイドをしてくれたラファエロ、私たちを受け入れてくれたアーノルドのピアノの弾き語りのセッションは忘れない出来事となりました。
半年振りの夫婦揃っての充電、定年の時頂いた旅行券がくさらないうちにとまた脱出、思いついたら即実行の亭主、よく考えると私達の人生もそんなにありあまるほどの時間は無いような気がするね、だから今やりたいことをしようと、山積みのパンフレットの中から抜き出す。さてさて今中国に関するニュースが流れない日はないほど、日本にとってもこの巨大な隣国の存在は大きなものになっていますね。変化のただ中にある中国の今を体感してみたい、とかっこよく書きましたが、本当はグルメ上海の旅にしたいです。なんたって田舎暮らしの食生活ですから、そして桜咲く岡山空港から、一日一便田んぼの畦道からおじいちゃんに手を振られ憧れの中国へ、軽食を食べ終わったらもう上海浦東空港、それ位近い距離にある。噂には聞いていたが田んぼの中にポツンポツン家が見える。この野菜が日本に安く輸入されているのか、フン、フン 滑走路から移動すると早々と目に入るのが草引きをしているおばさん、日本では考えられない素朴な光景だ。空港ロビーは長蛇の列はウエルカムプラカードを持つ人で溢れている。旅なれしてる主人は数分でキャッチ、一人旅などとうていできぬ年齢になった。色白の韓国人添乗員白点さんの暖かい手を握って少し安心「ニイハオ」とウインク、流暢な日本語とてきぱきとした行動私達も信頼感を持つことができた。それにしても私は何を勉強しているのか。
さてアクセスは先ず最先端のリニアーモーターカーで、時速四百五十キロと表示にかなり揺れを感じた。いかに日本の技術が優れているのか改めて見直す機会でもあった。彼女は「日本は高いのでドイツの技術を借りたのです」と笑っていった。ここ上海は二十階以上の高層ビルが3千戸以上はある。今も建設ラッシュ、地震のないこの街の名物でもあります。黄砂とビルで土と緑と美味しい空気が恋しくなる旅の初日、宿も深夜騒音とベットで眠れぬまま朝日を拝む。新鮮は早朝の空気を吸って蘇州の観光へと出発する。安いツアーはまさに体力勝負、長時間移動にまた車の乗り心地といい黄砂で景色半分、目もショボショボである。だが風光明媚な太湖のほとり、ひっそりとたたずむ古都蘇州は見事に中国庭園が点在している。またそこかしこに運河が流れ「東洋のベニス」と称されるにふさわしい。水の都にカメラを向ける。上海の騒音から逃れて週末はたくさんの人でにぎあう。水と緑がおりなす美観、ときたま鳥の鳴き声が聞こえてくる。昔のことだが詩吟で「江南の春」を吟じたことが思い出されてくる。まさにこの景なのか、すっかり忘れてた漢詩に興奮した旅でした。
五十代も後半を過ぎるといくら心くすぐる魅惑チャイニーズ料理も限界を感じた。つくずくと老化を実感、好奇心で箸をのばせばのばすほど胃は暴れまわる。ホレみなさいと反省の床につく。しかし地方特有の素材で使う料理は私好み、例えば黒酢の濃厚な味が染み込んだ魚料理は取りあいになった。後で杭州の代表的な料理と紹介される。たっぷりと詰まったスープが絶品誰もがよく知っている小龍包は店によって工夫させている。しかし肉汁は胃と相談しながらいただきまーす。若ければ上海料理の神髄を探るグルメの旅ができたであろうにね、友人がアドバイスするライフワークも訂正する結果となり。主人は食の文化はどこにいても対応できる羨ましい存在でもある。なによりもレトロムード漂う茶館でのテイタイムは心やすらぐひとときであった。日本と同じように今上海では古きよき時代を懐かしむ老上海ムードが大流行だそうです。 かって頂いた高級ウーロンチャ のちがいをまた懐かしむ時間となった。後半の地は上海の歴史を辿って歩く工程で始まる。二十世紀初頭に建てられたモダンでレトロな建物がズラリと顔をそろえる。見事な景観を形成している外難、しかし同時にそこにはアヘン戦争後 の如く押し寄せた列強各国の餌食となった悲しい歴史も見え隠れする。歴史の重みもをしっかりと感じ取りながら歩く。。
白点さんの強い進めで上海雑技団を見ることにした。少々高いが何事も「エイヤイ」と「なんでもありーの中国社会」、それにしても鍛えぬかれたスーパーテクニック、息も詰まるほどの妙技の連続、映像とはたしかにちがう、限りなく深い雑技の奥義に拍手をおくる、拍手を送る。これこそ中国なのかもしれない。
旅の終りは上海のライトアップを楽しみながらナイトクルーズ、共に行動した仲間とも今宵限りやっと親しくなった頃にはお別れ、仕事、趣味等気さくにお酒のつまみとなったテーブルは盛り上がる。船上からの外難はあでやかにライトアップされデザインを競ったアーチストの存在にエールを送る。事故もなく私達を誘導してくれた四人の若い日本語添乗員との出会い、それぞれの生き方を限られた時間で語ったことは私達の心の中の土産にもなった。ハードな仕事にも「私は健康だからこの仕事ができるのです」とはっきり答えてくれた。別れ際夢だけどいつか日本に行って旅行会社をつくるのだと最高の笑顔で見送ってくれました。五十七歳の誕生日を迎えたばかりの贈り物としては少し贅沢ですが主人の気配りにあらためてお礼をいいたい。再見