本堂

【本 堂】県指定文化財
 
真宗の仏堂は聞法の場である道場から発展していったもので、弥陀仏国土を象徴した内陣を正面に、大きな空間を持つ外陣が特徴である。今でも、本堂は門信徒の聴聞の場であり、報謝のお念仏の道場であることに変りはない。
 本徳寺本堂は入母屋造で桁行き十一間半・梁間九間と、県下で最大の規模を誇り、二百畳の外陣は播州一円の真宗門徒を集めるのに充分な空間を持っている。事実、戦後、新しいルールが敷かれるまでは、播州一円の全寺院の門徒が本徳寺の信徒とされ、御正忌報恩講や彼岸讃仏会には、挙って、この「播州の本願寺」に参詣し、門前は市をなした。
 寺録に依ると、明治初年(一八六八)、廃仏毀釈の嵐のなか、前本堂焼失の事変があり、『本願寺史』『明如上人伝』には、今の本堂が明治六年(一八七三)西本願寺「北集会所」(きたしゅえしょ)の移築になったものであることがわかる。その証拠に、棟瓦には、本願寺・阿弥陀堂と同様「紀州鷺森御坊講中・河州無量光寺門徒中」の寄進銘が陰刻され、床板の裏には本願寺名を墨守した床材が使われている。伝承は、本山よりの解体資材が海路飾磨津に運ばれ、同行の手渡しにより、飾磨街道を経由して、亀山に運ばれたことを伝えている  この「北集会所」は寛政以前(一七六〇〜一七九二)に仮御堂として、本山・阿弥陀堂の北(現在の本願寺派宗務所から隣地境内にかけて)に東面並行して建立されていた。須弥壇・厨子を設けて、法宝物を安置し、儀式、集会などに利用された。幕末、西本願寺は揺籃の維新政府に協力的であったため、一時、新選組が「北集会所」を屯所として占拠した。今も、現本堂・南面柱二本には、若き新撰組の闘士が刻んだ刀痕がはっきりと遺されている。
 その後、学林(龍谷大学)の大講堂に予定されていたが、本徳寺の本堂焼失後、播州門徒の強い要請で、三年の歳月をかけて移設された。その後、既に一世紀を経過している。