「今日の真宗寺院の原型を探る」@


<一向一揆の敗北とキリシタンの禁圧は真宗門徒になにをもたらしたか>

山陽学園大学国際文化学部教授 奈倉 哲三

 ただいまご紹介にあずかりました奈倉と申します。人の前で しゃべるのは仕事ですから慣れてはいるんですけれども、普段 の講義などとちがってこういう席ですといささか緊張いたしま す。
 お手元にレジュメと四枚の史料が配られてあると思います。 それに添って話を進めてまいります。「今日の真宗寺院の原型 を探る」としてありますが、副題は〈一向一揆の敗北とキリシ タンの禁圧は真宗門徒に何をもたらしたか〉であります。まず 「初めに」のところですが、レジュメには「私の立場と本会と の関係」と、「わたしのこれまでの研究と現在」と二つになっ ていますが、これを一緒にして話をしていきます。私は実は真 宗寺院の出でもなければ、正直申しまして檀家あるいは門徒で さえないんです。真宗との関わりあいがたいへん深くなった現 在では、こうして真宗のみなさんの前でお話する機会も随分増 えているんですが、そういう現在でも信仰は「持たず」、とい うよりは「持てず」と言った方が正確なんですが、不信心のま までおります。ただ高校一年の時に、だいぶ古い昔ですけれど も、『歎異抄』にたいへん強い衝撃を受けて以来、親鸞、特に その人間に対する見方というものに大きく共鳴をしておりまし て、大学時代には学園紛争のさなかに、一方ではマルクスや工 ンゲルスに熱中する傍ら、『教行信証』にも熱中するという、 そういうような人間でした。親鸞には強く引かれ続けておりま した。現在でも強くひかれております。
 大学卒業頃からだいたい学問研究に入りまして、広く言いま して日本思想史の研究、特に時期的には近世前期(江戸時代初 期)から近代初頭期(明治維新期)に至るまでの思想の研究を 手がけております。初めのうちは江戸時代の初期の儒教や儒家 神道の研究をいたしまして、後に本来の目的である民衆の意識・ 思想の研究ということに入りました。初めから、本当は学生時 分から民衆の意識・思想というものを研究したかったんですけ れども、民衆の意識・思想の研究に入る前に、それをとりまく 支配の側の思想状況というか、武士の思想とかいろんなものを 研究しないとダメだろうということで、始めは儒教とか儒家神 道の思想の研究をしていました。そのうちに、やっぱりどうし ても本来の目的の方へ移行したいということで、民衆の意識・ 思想の研究を始め、関東の農村(私は生まれて育ったところは ずっと東京でしたので、調査研究というと関東が足場がいいと いうことで)、その農村の庶民信仰の実態を研究し始めました。 関東農村というのは真宗が非常に弱いんです。そのため、禅宗 などの檀家の信仰の様子などを明らかにしたわけです
。  その後、呪術というものを否定する真宗が、江戸時代の門徒 の間で実際にどういう信仰であったかということをどうしても 研究したいという思いが強くなりました。私自身が真宗に引か れていたということも事実ですけれども、研究の上でも、江戸 時代の庶民の信仰をトータルにつかみたいという、たいへん欲 張った欲望を持っていましたので、他とは違う真宗もやりたい。 で、真宗優勢地帯のどこかに長期間の調査地を設定しようとい うことで始めたわけです。以来、新潟県の西蒲原郡一帯を中心 に、古文書の調査を十年間にわたって行なってまいりました。 その結果、真宗門徒の間では報恩講や寺お講等の際に節談説教 を聴聞したり、親鸞遠忌を各在家で執行したり、はるばる越後 国から京都本願寺まで続々と参詣するなどの、独自の信仰行事 を強く展開する一方、加持祈祷や神祇信仰にほとんどかかわら ないなど、他の仏教諸派の強い地域には見られない独自の信仰 が維持されていたことを実証し、著書や史料集の刊行、または 論文の発表などをしてまいりました。
 ちょうどそのころ、私のそうした研究が伝わりまして、中曽 根元首相の靖国神社公式参拝を違憲とする姫路の本願寺派の原 告のかたがた、尺一さんをはじめとする原告のかたがたとの通 信が始まりまして、私も信教の自由の確立の立場から、原告支 援の立場でいくつかの通信文を書いてまいりました。同時に、 真宗信仰の本来の宗教性の発展のためには、外部からたいへん おこがましい言い方なんですが、現在の寺院のあり方を根本的 に変革する必要があるということを、痛感していたところ、こ の会の設立を知り、支持を表明いたしましたところ、本日のお 招きとなった次第であります。
 現在では、真宗の強い新潟県と比較対象する意味で、真宗が 弱くて他の独特の信仰がたいへん興味深く展開した岡山の信仰 を研究しはじめまして、これは二年ほど前から始めたんですが、 そのご縁で、この四月に四年制となりました岡山の山陽学園大 学の国際文化学部に着任した次第であります。岡山の宗教思想 の研究は、一生かかっても終わらないくらい、たくさんの課題 があるのですが、これからはそれをやりながら、真宗と比較研 究していくというスタイルがずっと続いていくと思います。そ んなわけですから、あくまでも私の学問研究の成果の中から、 この真宗興隆会の活動にお役に立てそうな話を、かいつまんで 話すということでご勘弁を願いたいと思います。今日はその第 一回目としでおきたいと思います。もしも今日の話が、多少な りとも皆さんの会の方向にとってお役に立つようでしたら、ま たのご縁の時にこの続きを話させていただきたいと思います。 それでは本論に入ります。
 まず大きなT「一向一揆の敗北と真宗門徒」、その1「一向 一揆とその敗北」、そのまた@「一揆の展開と信心」に入りま す。一向一揆そのものについては、それが中世後期の土一揆な どの展開を背景として、一四七三年頃から加賀などの地で活発 化し、一五八○年に本願寺が織田信長に屈伏して石山戦争が終 結するまでの一世紀強にわたって戦われ、「百姓のもちたる国」 などと言われた真宗寺院門徒の自治的な宗教王国であったとい うことなどは、これはもうここに集まられた皆さんであれぱ充 分にご承知のことだと思います。お話ししたいことは、その一 世紀間の一揆を支えた門徒の信仰心のうち、何にいちばん注目 すべきかということであります。それを一言で言えば弥陀一仏 の信心による結合という問題であったと思います。現在愛知県 の「浄顕寺」にあるもので、近江長浜の門徒が守護との戦いに 備え、団結して戦うことを誓って御本尊の阿弥陀如来立画像の 裏面に血判の署名をしたというものを、写真等で見られた方も 多いことと思われます。また広島県竹原市の「長善寺」には、 「進は往生極楽、退くは無間地獄」としるした安芸門徒の旗も あります。また、蓮如が激化する一方の門徒の同行を、むしろ 抑制する方向で出した書簡の中に、たびたび他の神仏を軽んず るなという文言を記したのは、逆に門徒の弥陀一仏の信心の強 さを示しております。弥陀一仏をひたすら信じ、安心決定を得 て闘う。これが当時の多くの門徒に共通した信心でした。この ことだけ、まず確認しておきたいと思います。
 次にAの「一揆敗北の時代状況」について考えます。何で一 世紀にもわたる宗教王国ができたのか。また敗北したことはど ういう歴史的な状況の中でのことなのかということについてで す。今日の私の話は、先ほどの@のところでもそうでしたけれ ども、一つ一つを全部細かく詳しくやる形をとりませんで、で きるだけ今日の問題から見て、顧みるべき、学ぶべぎことは何 かということに集中して話をしていきたいと思います。もう一 度今の問題を出しますと、何で一世紀にもわたる宗教王国が有 リ得たのか。また敗北したことはどういう歴史的な状況の中で のことなのか。そもそも、一向一揆が百年も闘われたというこ と自体、戦国時代という時代状況ならではのことです。統一権 力の崩壊、地方権力間国志の権力抗争、いわば支配の網の目の 切れ目、そういった中でのことです。そして現実の生活が内乱 状況のもとで不安になるにつれて、現世の秩序、権力を相対化 し、浄土の安寧を想って弥陀への帰入を一途に求める真宗の信 仰が急速に広まっていくのです。とすれば、地方権力を統合し て封建的な支配を民族的な規模で統一しようとする天下統一の 動きが、この宗教王国の解体に向かったということは当然の動 きです。この動向をもう少し長い眼で見ますと、古代・中世ま での、宗教的権威それ自体を、一つの権力的なものとして認め るようなあり方、寺社を領主とする荘園制もその一つですが、 そういうあり方を否定して、国家的な支配のもとにすべての宗 教的権威を押さえ込むような、新たな権力と権威との関係の樹 立、それがなされてゆく一環だと見ることができます。ですか ら、信長が比叡山を焼き討ちしたということも、真宗門徒にと って関わりのないことではないんです。それを狭い眼で見ては いけない。天台宗という問題ではないんです。仏教全体の権威 である叡山、これが、焼き討ちにされたということです。これ は、権威と権力の関係が新たな方向に向かったということで、 そういうことの一環として、一向一揆の解体・敗北という事実 があるわけです。
 では、次に2として、このことの「真宗門徒にとっての意味」 を考えたいと思います。まず@として「信仰と権力、その歴史 的段階」といった視点から考えてみましょう。ひとことで言え ば、この一向一揆の敗北以後、門徒の権力への恭順と感謝の念 が一つの体制として作られていったということです。本願寺門 跡という巨大な寺院自体が明瞭に一つの権力であった時代には、 末端の寺院道場を通じ、権力である本山の下に組織されている という事で、純粋な政治権力の方を相対化するということも現 実にできたわけです。が、そうした権力としての寺院自体が解 体されていきますと、いわば裸の門徒になるわけです。それで も抵抗すれば、あの越前府中(現在の福井県武生市)で信長に やられたように、皆殺しにあうだけになります。新たな権力の もとで生きていくには、統一権力による寺院・宗教に対する全 面的支配をまず認めなければならない。そういう歴史的段階に 来た。一向一揆の終局時点ではそういう段階に来ていたという ことです。ですから、自分にとっての信仰の対象が、例えば阿 弥陀如来なら阿弥陀如来が、どんなに自分にとって絶対的なも のであっても、その信心をもって地上の権力者を拒むような信 仰の持ち方はもうできなくなったということです。ただ、もし 力づくでただ屈伏させられただけならば、「やられた、残念」 という、そういう気持ちが残って、裏に復讐の念が蓄積される ということも有り得るわけです。実際、信長が本能寺で討たれ たとき、本山はもう懲りて動かなかったけれども、諸国の門徒 は再決起を図りましたね。信長が本能寺で討たれたという情報 が伝わってすぐに、あちこちの門徒は自発的に決起しました。 しかし、これが江戸幕府に対してはちがうんです。一向一揆敗 北後の対応のあり方も一つの契機となって本願寺は分裂します ね、その分裂した本願寺の東西双方を幕府は認め、門跡寺院と しての復興も認めたわけですから、家康への感謝の念も、そう そう根拠のないものとしてではなくて出てくるわけです。しか も家康は浄土宗の念仏の徒でもあり、真宗とは違いますけれど も、南無阿弥陀仏と称えています。そういうこともありますか ら、ある種の共通性もあるわけで、ありがたいこととしてとら えることも実際にでてくるわけです。こうして権力に対しては 恭順と感謝の念が江戸時代門徒の基本モチーフと成らざるを得 ない体制ができあがってまいります。
 ではAの「信心の質」の方はどうでしょうか。 一向一揆の敗 北ということによって、信心の質は何か変わったでしようか。 これにはいろいろの特質を挙げることができるわけですが、こ こではこの時期から顕著になる重大な傾向の一つとして、事実 上、来世一本やりの信仰に陥っていったという問題を挙げてお きたいと思います。この傾向は江戸時代になってさらに顕著に なりますが、実は蓮如『御文章』の中にすでにその傾向が見ら れます。みなさん方の中には、親鸞の信仰の見地から蓮如のず れを指摘するというような論には、抵抗を覚えるむきもあるか と思いますが、宗教思想の歴史的な展開を追跡する宗教思想史 の見地から、親鸞・蓮如を順に追っていけば、これははっきり とその違いが出てまいります。親鸞にとって現世の秩序は仏の 世界の絶対性に比して、「よろずのこと、みなもてそらごと、 たわごとまことあることなきに」と、まったく問題にならない もので、否定はたいへんきっばりとしたものでした。また、だ からこそ還相回向の視点から、信心決定した時は、その現生に おいて正定聚の位に入るとして、この否定すべき現世の苦海に 生きる煩悩具足の衆生を、如来等同と、救済する信仰を説いた わけです。蓮如も現世否定を繰り返します。しかしその否定の 仕方は、『御文章』の語りかけ文体にもよるのですが、どこか 詠嘆的な、無常観的な響きをもったもので、それも、人間の一 生をどうみるかということに関して、詠嘆的な否定となります。 ごく一例だけを示せば、「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら 観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終、まぽろ しのごとくなる一期なリ」というようなものです。この調子の 繰り返しがたいへん多いのです。そのため、勢い、現世の対極 としての浄土は、ひたすら、あこがれの地として響き、一人一 人がそれぞれ己れの浄土往生を強く願うという心理状態となり ます。蓮如の時代にはまだこの調子でもよかったのです。この 調子で実際に真宗の信心が得られたと思われます。しかし江戸 時代になって、現実の権力、秩序に対して、先ほど申しました ように恭順と感謝の念をもって生きざるを得なかった門徒の中 で、これが繰り返し読まれるようになると、この傾向は、先ほ ど言いました親鸞の「還相回向」・「正定聚の位」・「如来等 同」といった視点をすべて忘却させ、往相の回向のみに対する 関心となって表れ、一般的な「浄土イコール来世」観とも合わ さって、ひたすら、己れの来世における浄土往生だけを願って 念仏を称えるという、事実上の来世信仰一本やりとなってしま います。ここではこのことだけの指摘にとどめておきます。
 話を大きく転換しまして、次に大きなU、「キリシタン禁圧 と真宗門徒」との問題に入ります。今日の話の中心はむしろこ ちらにあります。といいますのは、いま私が申しましたことは、 おそらく真宗寺院とそれに関係する皆様方であれば、多少なり とも、似たような話は聞かれたことがあると思うんですが、こ れからお話しすることは、ほとんど私だけが調べていることで すから、聞いたことはないと思います。
 はじめに「1キリシタンの広まりと禁圧」、まず@「キリシ タン信仰の広まリ」。一向一揆百年の、その後半に人ってちよ っと経った時期ですね、その時期に日本に入ってきたキリスト 教、そのキリスト教がその後半世紀強、ですから一向一揆が解 体されるのとちょっとずれていくんですね、半分、二つの線が だぶった時期があるわけです。その半世紀強の間にキリスト教 が怒涛のような勢いで日本中に広まったということ自体は充分 にご承知のことと思いますが、どのくらいの数がキリシタンに なったかご存知でしようか。史料が充分にないために正確な数 はいまだに確定できません。が、いくつかの史料を手がかりに 類推しますと、キリシタン禁令が実質的に動き始める一六一○ 年代ころに最高に達しまして、約七○万人前後がキリシタンに なっていたと推定されております。この数は、それ以前の仏教 のどの宗派も単独では獲得できなかった数です。あるいは当時 まで最高であった真言宗が唯一それと並ぶぐらいであったかと 思われるほどの数です。真宗は真言宗・禅宗に次ぐ数を擁して いましたが、当時はまだそこまでは達していなかったと考えら れています。俗に「百万門徒」というのは、これはキリシタン が禁止され、日本中の誰もがキリシタンではないという証(あ かし)として、仏教寺院に強制的にくっつけられていった、そ れ以後のことであります。一向一揆を表わすのにも百万門徒と いう表現がありますが、これはかなりオーバーな表現です。さ て、それほど多くの日本人の間に広まったキリスト教、果たし てどのようなものとして受容されたのでしようか。
 史料の@を見て下さい。この史料は、岡山大学の付属図書館 所蔵の池田家文庫に入っている池田光政の時期のキリシタン取 調文書中の一文書であります。厳しい弾圧で棄教を余儀なくさ れた備前国佐伯村(今の岡山県佐伯町佐伯)の、与次右衛門と いう人物が、牢中から敢えてキリシタンヘの立ち帰りを宣言し ます。与次右衛門は以前に一度徹底的に拷問を受けましてキリ シタンを棄てさせられていたわけです。棄てたといっても牢屋 からは出されなかったんです。その牢屋の中からもう一度キリ シタンに帰ると宣言したのです。そしてその後の取り調べで、 立ち帰りの意志を述べた寛文五年、一六六五年の六月六日のも のが史料@の文書です。ちょっと読んでみましよう。
 まず、「巳の六月六日」とあります。「佐伯村与次右衛門口 書き」「一つ、私吉利支丹宗門に立ち帰り候旨趣、別に替わり たる儀にて」次の行、「御座無く」無くが上にくっつく、「御 座無く侯」。「ひとたびころび居り申し候えども、深く存じ入 りたる宗門の」三行目からですね、「宗門の儀に候えば、中々 捨おかれる儀にて御座無く候。人々命の惜しくと」次の行、 「惜しくと存ぜざる者は御座無く候。子供を不便(憫)と存ぜ ざる者も」次の行、「御座無く候えども、たとえいかようの罪 に私並びに倅どもにおおせつけられ侯」とても、が次に来ます、 「とても、この世は仮の儀、来世は永きことに御座候えば、後 世をたすかり申したく存じこみ候えば」、「私身の儀倅共」次 の行、「の事もかえりみ申さず候。御公儀おんころび候と申し、 心根にきりしたんを願い候は、天道をかすむることと存じ候え ば、この度この方より申し出たる儀にて御座候」最後の三行、 「惣別、きりしたんの法、少しも偽り申し候へば、天道のとが めを蒙り候の故、偽り申すこと、成り申さず候。唯今まで人に すすめ申す事ついに御座無く候。以上」という文章ですね。
 この中に、「この世は仮の儀、来世は永きことに御座候えば、 後世をたすかり申したく存じこみ候えば」とありますね。ここ には、世間虚仮という仏教の基本命題、および浄土系の信仰に 依拠してキリスト教が入っていったということが見事に表れて おります。すなわち、弥陀を信じて浄土へ往生するという信仰 が、そのまま、デウスの救いによリパライソへという形でキリ スト教を受容する受け皿となっているわけです。ここで史料C の下段、「どちいりなの序」というのを見て下さい。これは、 宣教師が日本にキリスト教を布教する上で、日本人の信仰実態 を詳しく調べ、日本人向けに日本語の教理書を記したものの内 の、もっとも基本的なところであります。冒頭の三行だけを見 てみます。そこに「御主(あるじ)ぜず−きりしと御在世の間、 御弟子達に教えおきたまう事の内に、とりわけ教えたまう事は、 汝達(なんじたち)に教えけるごとく、一切人間に後生を扶 (たす)かる道の真の掟を弘めよとの御事なり。」というのが 出てまいります。つまりこの『どちいりな−きりしたん』文書 の序文第一命題である「一切人間に後生を扶かる道の真の掟を 弘めよ」とあったキリシタン布教の根本命題が、そのまま日本 民衆のキリスト教信仰の内実にもなり、キリシタン信仰が仏教 の浄土系信仰と近似的なものとして受容されたわけです。つぎ にAの「禁制」の問題に入りますが、ちょっと時間が押してき ましたので、内容を端折りながらすすめていきます。今、仏教 の浄土系信仰と類似のものとしてキリスト教が受容されたと言 いましたが、しかしキリシタンが、もしも仏教と全く同様のも のとしてキリスト教を信仰していたのならば、弾圧を受けた時 にさっさと棄教して浄土信仰系寺院の檀家になればいいはずで す。まして、わざわざ立ち帰り宣言をして敢えて極刑を受ける などということは起こり得ないはずです。キリシタンはやはり キリスト教独自の信仰をつかんでいたと考えなければこの「与 次右衛門の立ち帰リ」とか、またこれはみなさんも御存知だろ うと思いますが、殉教者が数多く出たということなども説明で きなくなります。そこで、今一度、先ほどの史料@とそれから 史料Aの立ち帰りを決意した時の、いわぱ「立ち帰り宣言」、 これをちょっと見て下さい。@は先ほど読みましたから、Aを 読みます。こっちが時間的には初めの方で、「立ち帰り宣言」 そのものです。
 「一つ、私儀、さいぜんキリシタン宗門ころびまかりあり候 えども、また立ち帰り候段、申し上げ候につき、去々年さまざ ま拷問おおせつけらるる時、子供不便(憫)に存じ候いて、一 向宗旨にまかりなり候えども、こころに吉利支丹を願い候ては、 御目(おんめ)霞め(かすめ)」これは「霞」という字が ですね、上の雨かんむりと下とが分裂してしまって、二つの字 みたいになってしまっていますが、「霞め申すも同前(然)に 御座候。まゝ・立ち帰り、吉利支丹を願い申し候。いろいろ御 意見おおせきけられ候えども、ころび申す覚悟御座無く候」も う絶対これからころびません、と宣言しています。「以上 寛 文五年二月二十五日 佐伯付 与次右衛門」・わざわざ牢屋の 中からこういう宣言をしたのです。もちろんこれは極刑覚悟で す。私は真宗門徒でもキリシタンでもないんですが、こういう 信仰の神髄に触れたものを見るとやはり立派だなと思います。 このAと、先ほどの@のニつの文書の中に「心にキリシタンを 願い候いては、御目霞め申すも同前」「心根にきりしたんを願 い候は、天道をかすむることと存じ候」とあります。この二つ の文は同文型で対応いたします。「御目霞め申す」は「天道を かすむる」に相当、つまり二つとも、「掠める」の意味です。 そういたしますと「御目」も、「天道」(てんとう)に相当す る語彙のはずです。そのような「御目」とは何か。これは隠れ キリシタンの史料に出てくる「オンメサマ」(御目様)と同義 の語です。この「オンメサマ」は、例えば、『サカラメンタ提 要』というキリシタン史料の「オラショ」(祈リ)の中に「御 身」の表記で頻繁に出て来る「デウス」を意味する語を変形し たものであります。しかも、信仰の上では「デウス」を意味す る語を敢えて「御目」と表現するのは、これでもって表面では 「公儀の目」・「幕府の目」を表すことが可能だからです。 「御目」ですね。このままでは幕府の目をかすめることになり ます、ごめんなさいと、こういうふうに向こうには取れる。 「天道」も全く同様の使い方です。つまり、ほんとうの意味は キリスト教の「デウス」。これも、儒教道徳の「天道」で通る。 従って二回の陳述で与次右衛門が述べている真実は、共に内心 でキリシタンを願っていても、表面仏法に帰依してしまってい るのでは、「御目かすめもうす」「天道をかすむ」すなわちデ ウスをかすめることになるという意味で、それを表向き、公儀・ 幕府の目、儒教的規範に背くことになってしまいますとの表現 で使っているわけであります。このように与次右衛門は、デウ スを欺いてはいけないというキリスト教徒としての規範を、自 己のものとしているわけです。そればかりではありません。与 次右衛門は、実はキリスト教の神髄を次のように語っていまし た。@の最後の一行「惚別、きりしたんの法、少しも偽り申し 候えば、天道のとがめを蒙り候のゆえ、偽り申すこと成り申さ ず候」。
 これこそが見かけ上仏教徒として生きて、内心にキリシタン を堅持するというような「隠れ」の思想にもう我慢ができず、 極刑を覚悟で決然と立ち帰った真の理由であります。少しでも 偽りをもって生きれば、天道デウスのとがめを受ける。この考 え方の背景には、『どちりいな−きりしたん』などでしきりに 強調され、信仰生活のなかでも重きをもって実践された「こん さん」ラテン語で懺悔の意味でありますが−。この「こんひさ ん」の思想が貫いております。「こんひさん」を繰り返すこと で、キリシタンは本当のキリシタンになっていきます。懺悔に おける正直の実践、つまり私はこのような罪を犯しましたとい うことを、神父さんに申し述べるわけですね。「神よ、おゆる し下さい」というふうに。そのような正直の実践の思想と、御 糾明、最後の審判での糾明におけるデウスの裁きを恐れる感情、 それとが一体化しておりまして、キリシタンとして生き、キリ シタンとしてこの世の生涯を閉じたいというそういう願望が溢 れているのです。

    (休憩)

 それでは進めさせていただきます。お手元のレジュメの右側、 2に入っていますね。いま述べたようなことの「真宗門徒にと っての意味」の問題です。さて、こういうような、幕府によっ て信仰の命を断たれたキリシタンたちの歴史は、真宗門徒にと ってどういう意味があるのでしようか。こういう問題を、それ はキリシタンの歴史というふうにだけ聞いていたら、私たちに は何の前進もありません。私たちは自分の信仰に信念を持つと 同時に、ある信仰が権力によってつぶされたり、追放されたり しようとしている時に、私たちの問題ではないということでそ れを見過ごしていくようであれば、それはもはや宗教者として 失格であります。ということは、キリシタンの信仰があのよう な信仰であったにもかかわらず、幕府から徹底的に弾圧を受け ていったという事実を、まず歴史の順序にしたがって、当時の 真宗門徒にとってはどういう意味を持ったかという問題、次に、 それを今日われわれはどのように捉えていくべきか、という二 段構えで考えていく必要があると思います。まずもちろん、歴 史の順序に従って考えていきましょう。
 まず「@隠れと真宗門徒」という問題。ここではニつのこと だけを考えます。まず一つは棄教を余儀なくされた者の転宗後 の檀那寺には何宗が多いかという問題です。実は、この問題を 設定しても、それを全部正確に解明できるだけの充分な史料は 残念ながら残っていないんです。従って、全国的な傾向を正確 につかむことは不可能です。しかし、私が研究を進めている岡 山の地では、江戸時代の前期には真宗寺院がたいへん少ない地 域なのですが、その地域で転宗後の檀那寺に真宗を選ぶ事例が 目だつという問題があります。一つ一つの史料の紹介は省きま すが、いずれも全部岡山大学所蔵の池田家文庫の史料で判った ことですが、元キリシタン横川三郎兵衛という人の檀那寺が、 一向宗の中島教徳寺というお寺でした。磯上村の七右衛門とい う人の娘、これもキリシタンの嫌疑がかけられたのですが、そ の人は嫌疑がかけられた時、「私は真宗であるが、無理にキリ シタンの祈りをとなえさせられたんだ」といって弁明しており ます。苦しい弁明ですね。なんで真宗の人が無理にキリシタン の祈りをとなえさせられたのかという説明がちょっとつかない と思うんですけれど、ということは、要するに隠れのキリシタ ンが真宗寺院を選んでいたということでしょう。立ち帰り宣言 をした例の佐伯村与次右衛門、この人も先ほど読んだ史料の中 に、寛文三年に一旦転んだ時に一向宗旨になったとありました。 さらに、与次右衛門の倅、二郎太夫・吉太夫とも檀那寺は岡山 の光清寺というお寺になっています。近世初期の備前には、先 ほども言いましたように真宗寺院が極端に少ない地域ですから、 こうした一連の事実がたんなる偶然とは思われません。不承不 承の転宗者は、仏教徒として生きざるを得ないならば、せめて キリスト教に近い真宗信仰を選んだものと思われます。
 もう一つの問題は、これと関連して、近世前期の真宗寺院に は、キリシタンと承知で隠れを擁護したうえで、幕府や藩の強 圧的な政治に抵抗した者がいたという問題であります。連帯の 問題とも言えます。実は先の佐伯村与次右衛門の倅二人を、与 次右衛門の立ち帰り当時から真宗門徒として預かっていた岡山 の寺院、光清寺の僧、恵海の行動からそれが窺えるのでありま す。
 ここで、恵海の行動の背景を理解するために、池田光政の宗 教政策を簡単に説明します。日蓮宗に不受不施派という派があ ります。江戸時代、キリシタンと並んで禁止された宗教がこの 日蓮宗不受不施派であります。全国的には岡山と京都、千葉県 これが三大拠点地、そのなかでも岡山は特別強かったんですが、 その日蓮宗不受不施派に対する弾圧に始まるのが池田光政の寺 院整理(僧侶追放、寺院破却)であります。光政は大変な仏教 嫌いでして、その仏教忌避の思想は備前に多かった真言宗や天 台宗にも容赦なく及びます。寛文五年の寺院整理、このときに 徹底的に寺院を潰します。その後寛文六年五月から「一村一宮」 と言いまして、一つの村には一つの神社しかいらんと、他はい らんといって徹底的に神社を整理します。神社を整理したのは、 神社が嫌いだからじやなくて、神社を一つの村に一つだけ置い てそれを使って統制しようとするんですね。そして、八月から キリシタン神道請けという、つまり、キリシタンでないという ことを神職のものが証明するという、全国的に極めて稀な、例 外的な政策を光政は展開しはじめるのです。そしてその徹底の ために、この寛文六年の八月中に「出家中へ仰せわたせらるる 書付」という九ケ条の申し渡しを発令いたします。そして寺院 僧侶に対する全面的な統制に乗り出すわけです。
 この「九ケ条」に対して身を呈して反論を加えたのが、佐伯 村与次右衛門の倅二人の師匠、岡山光清寺の恵海、真宗の坊さ んであります。恵海は、寛文六年(一六六六年)十月に報恩講 おとり越しの法座でもって、「九ケ条」批判の法談を行い、座 に連なっていた藩近習の者によって訴えられ、さらに十一月の 報恩講本座の席でも、再度「九ケ条」を批判しまして、法談中 に逮捕されます。十月の法座のときに、すでに「わが申す旨を 上に達せば幸いなり。死罪おこなわるるとも憂いなし」と極刑 覚悟で「九ケ条」を全面批判しており、逮捕後、閉門の処分を 受けます。さらに、閉門のなかでも、翌年上下二冊の書物を書 き著わして使僧をもって藩の城代役人であった稲川十郎右衛門 のもとにこの書物を送りつけます。激怒した藩側は恵海を呼び 出して詰問いたします。それに対し、恵海は、「去年の法談は 上の心不に達せず、奉行誤り候故、我ら上の心を、下に達し侯。 それを責められ候わば、九ケ条の教えは偽りなリ」として正面 から批判します。さらに、「閉門なれぱとて、何ぞいさめまじ きや」閉門の身であるといって、どうしていさめていけないこ とがあろうか。上の誤りは、下たるものがいさめなけれぱなら ない、といさめの正当性を主張いたします。閏二月三十日つい に永牢処分となります。三月三日には光清寺の屋敷地が藩の会 所として没収されて事実上の破却になります。今のところ、こ れらすべて藩側の記録でありまして、藩側の記録しか見つけて いませんので、「九ケ条」批判の詳しい内容や二冊の書物内容 まではわかりません。また見つかったとしても、キリシタン擁 護の文言がはっきりと記されていれぱかえって、いま門徒とし て隠れている二人を暴露してしまうことになりますから、それ は記されることはないでしょう。しかし、光政の仏教弾圧に真 正面から抵抗した真宗寺院の僧侶が、立ち帰りキゾシタンの倅 二人の師匠であったという事実、この事実はたいへん重い事実 です。それは、一向一揆とキリシタンの双方を潰してできあが ってきた初期の近世幕藩制国家の下でのこのニつの宗教の近似 制について改めて認識させられるとともに、真宗寺院僧侶のキ リシタンに対する意識的な連帯がこの時期にあったということ が、充分に推測できるということです。
 では、次にAの「邪宗観と真宗門徒」という問題に入ります。 いま挙げました光清寺の恵海のような行動や連帯的な思想を維 持し得たのは、おそらくこの時期、寛文期一六六○年代ぐらい が最後で、これ以後は幕府が強調するキリスト教邪宗観を急速 に受容し、義務づけられた毎年毎年の宗門改帳、これは「耶蘇 宗門改帳」とか、「邪宗門御改帳」と書かれますが、この「宗 門改帳」の作成を、毎年繰り返す内に、キリスト教排除に荷担 することがむしろ勧めであり、寺院としての責務であるとさえ 思うようになっていきます。こうしたこと自体は容易に想像で きると思いますが、もう少し深めておきたい点は、このキリス ト教邪宗観の受容が、真宗寺院さらにもっと広く言って日本仏 教の精神にとって、内容的に非常に深刻な問題であったのは、 それが民族主義、それも排外的な民族主義への傾斜の基となっ ていったということであります。それはどういうことでしよう か。
 キリシタンに対する最初の抑圧的な法令が、秀吉による一五 八七年(天正十五年)の宣教師追放令であるということは、皆 さんも御存知だと思います。あれは宣教師追放令ですね、まだ あの冒頭に「日本は神国たるところ、キリシタン国より邪法を 授け候儀、甚だ以てしかるべからずそうろうこと」と、あった わけです。あそこに見られた神国観念はその後急速にイデオロ ーグ達の間で膨らまされていきます。かって日本人のイルマン (修道士)として活躍しながら一六○七年(慶長十二年)頃に 棄教して一六二○年(元和六年)には反キリシタン書を著した ハピアシという人物はその書の中で、キリスト教の創造神は何 も珍しいものではない、同じものは日本にもあるといって、 『日本書紀』の神代の上に登場する、始めの七神、とりわけ最 初の国常立尊(くにのとこたちのみこと)を、天地開闢の神話 とともに説明して、誇ってみせたりします。
 また一六四二年(寛永十九年)頃には禅僧である鈴木正三が 「それ日本は神国なり、神国に生を得て神明を崇めたてまつら ざらんは、非儀の至りなり」などと言っております。さらに、 それまで朱子学によって封建制・身分制の支配を弁明し、人間 としての道徳を説いていた朱子学者林羅山などが、国家の歴史 や朝廷と武家権力との関係、つまり徳川幕府がどうして権力を 持ったのかというようなことを幕府のイデオローグとしては説 明しなくてはならないわけですが、そういうことを考えた時に、 とても朱子学だけでは論理化できない。で、どうしたかと言う と、神道思想の摂取を意識的に図り始める、そして儒家神道と いうのを説き出す。そういうことも、キリシタンを排除する根 拠に神道的な観念を求めるという動向が社会の中で深まってい たということと、密接な関係があるわけであります。
 さらに、近世の初頭に集団的な伊勢参宮が発生し始めますが、 これも実はキリシタン排除という国家意識の浸透過程の結果で あったと考えられます。しかも、そこにはかなり意図的な演出 があったと思われます。キリシタンの地であった長崎の地で伊 勢参宮が起こるのですが、それがキリシタンを一掃した後長崎 の代官が意図的に神社を作り、伊勢参宮への道を敷いてきた結 果であったということも論証されました。
 以上のことは、キリスト教を邪宗として排除するための保障 として、寺院による宗門改制度を完成させていったこの時期ま でに、一方で、「民族の神」の観念を核とした排外主義的な神 道思想が隆盛しつつあったということで、それを見落としては ならないでしょう。そういうふうに見てくると、広く庶民の生 活に根ざしていた仏教・寺院に、キリシタンを排除するという 機能が付与されたことによって、これ以後の仏教が、キリシタ ン排除の論理的根拠づけを背景にして隆盛しつつあった神道、 神祇神道と、より一層習合しやすいものとして展開するだろう ということは、容易に想像つくだろうと思います。すでに神仏 習合は古代・中世以来の一つの傾向であったのですが、それが ますますそうした傾向に拍車がかかっていくわけです。このよ うな傾向は神祇不拝をモットーとしていた真宗寺院にとっても、 決して免れない傾向となっていくということが重要であります。 それでは次にUの最後としてB「禁教体制と真宗門徒」という 問題に入ってまいります。
 ここでは、キリシタンの嫌疑がかけられた人物が、キリシタ ンではないという身の証を立てるために、親の忌日法要をつと めているということを、まず注目しておきたいと思います。
 中野五郎兵衛という人物は、キリシタンとして死んだ親の年 忌に「私の法に任せて」真言宗の寺院で「心ざしつかまつり侯」 と述べています。それから魚屋甚四郎という人も親の年忌法要 を檀那寺の真言宗寺院・薬師院で勤めているということを挙げ ております。それから小間物屋吉右衛門は、自分はかつて十年 ほどキリシタンであったが、棄教して二十三年ほど経った今で は法華宗で親の忌日法事を行なっていると主張しております。 いずれも真宗寺院でない点に注意して下さい。さらに最後にあ げた小間物屋吉右衛門は、陳述の際に、浄土宗及びご門徒宗、 これは真宗のことですね、浄土宗と真宗では忌日法事をしてい ないという注目すべき証言をしております。

「一 私二親共代々浄土宗にて御座候、伊勢之津に居申侯   て母は十年程跡に果申候、親は六年程跡に果申候、私唯今   之宗旨法花にて御座候、宗門の法度にて浄土宗之寺院にて   は年忌忌日心さしも不仕候に付て、取置之寺へも終不参侯   付、とり置之坊主之名も不存候、法花宗門にて心さし仕候、   二親の忌日には毎月旦那坊主斎によひ申候」
  「右之女共もきりしたんにて御座候、私と一所にころび申、   十七年跡に果申候、こもんと(御門徒)宗にて御座候故、   せう音寺(浄恩寺?)にてとり置き申候、此坊主于今当所   に居申候、年忌忌日なとには、右申如法化寺にて法事仕侯」
 すなわち、吉右衛門は、自分の両親は代々浄土宗であったが、 「宗門之法度」では浄土宗之寺では「年忌忌日法事」をしない ので、棄教した私は法花宗門となって年忌法要を行なっている。 また、かつてキリシタンであって自分と一緒に転んだ女は、 「御門徒宗(真宗)」となったため、この寺も同様に年忌忌日 法事をしないので、(家族の者は)法花宗の寺で法事を行なっ ている、というのです。
 近世後期、幕末期の真宗の忌日法事に関しては、私はかつて 越後蒲原の事例を詳しく分析し、そこでは年回忌法要自体は十 七回忌まではほぼ漏れなく執行されているものの、その形式・ 内容とも今日の法事とは全く違っておりまして、例えば正月に 寺院へのお寺参りがあって、挨拶に当然やってくる。一つの村 から集団で門徒が七十人も八十人も来るわけですが、その年が 年回に相当する家の人はそのまま寺院に上がって、何軒もが共 同で、例えば三十軒なら三十軒が共同で、つまり共同の「あげ」 といいますが、共同で寺に上がって「上げの法事」を執行する 者、これがたいへん多い。それから在家でやる場合でも、親戚 などを呼ばずに執行する者がほとんどであります。ごく簡単に すませます。供養法事としての性格は極めて弱く、また活発な 信仰生活全体のなかでの比重はたいへん軽い事を指摘しておき ました。近世初期や前期については、研究はまだまったくあり ませんが、後期のこうした実態から、真宗では報謝の念仏とい う本来の立場から、おそらく年回法事自体がまだ執行されてい なかったのではないだろうかという感触を得ておりましたが、 この小間物屋吉右衛門の僅かの証言によって、少なくとも備前 の真宗と浄土宗の檀家の場合には、年回法要自体が執行されて いなかったという事が判明しました。年回法要、年忌法要が一 般檀家の念仏の世界に入ってくるのも、やはリキリシタン禁制 の制度が定着して以降のことであろうと思われます。その過程 の近世前期においては、キリシタンではないかとの嫌疑から逃 れるには、日蓮宗や真言宗の檀家になって年回法要を執行する ことが一つの保障となるとの判断を、この地域の庶民はしてい たわけです。
 このように見ておくと、「真宗の法事は供養法事ではありま せん。如来様にむかって念仏申し上げておるのです」という説 明は、単なる苦しまぎれの弁明じゃ絶対ないと、それはまさに 「供養法事」と見誤られるようなもの自体が、真宗の歴史から 見れば新しい現象であったんだということがわかると思います。 それはキリシタンを禁止した結果、キリシタンではないんだと いうことを真宗の寺院にも証明させるための、一つの形態とし てでてきたものなんだと。もちろん真宗以外の寺院ではそれ以 前から、供養法事をやってました。こういうようなことは、私 たちが一つ一つの歴史的な段階を正確に掴んでいくということ が、どれだけ大事かということを物語っていると思います。そ してこれ以降、宗門改制度が完成していきますと、今度はもう 家としての宗教、家としての信仰が完全に体制化していくわけ であります。門徒とはいえ、それは檀家としてまず存在する、 そういうような状態になります。中世のような、それなりに選 択的自由、(これを選択的自由と本当に呼べるかどうかは別問 題としても)それがまだしもあったようななかで、教線の拡大 にしのぎを削っていたような時代と違って、完全に固定化した 檀家がある。檀家と寺院の関係がいよいよ定着して以後、二百 年間その体制が続いていくわけであります。以上でUまでをす べて終わります。
 最後に、Vとして「そこから何を汲み取るべきか」という問 題に入ります。Tの「一向一揆敗北の歴史から」。一つは一言 で言えば弥陀一仏の信心を学ぶということです。弥陀一仏の信 心は、一向一揆の門徒の最も大事な信心の特長だと申しあげま したが、私はそれを習合性のない強い信心というふうに捉えな おすことができると思います。一揆という戦いはまさか今日必 票なわけはありません。問題はこの強い弥陀一仏という信心を、 今日の情勢のなかでも、信心の純粋性として把握し直す、その ことがどれほど信仰者にとって重要なことかということを改め て学び直すという問題だろうかと思います。
 それから二つ目として「地域共同体結合から個人結合へ」と いう問題をあげておきました。この問題は話の中ではあまり触 れませんでしたが、封建制度の下では、領民としてまず封建領 主に把握されております。そしてそのもとで庶民の生活それ自 体が共同体的な生産、水の利用等を含めてですね、共同体的な 生活抜きには有り得ません。従って地域結合も極めて供同性が 強い。そのなかで共同体的な結合として、弥陀一仏の信心が一 つの一揆というような構造になり得たわけです。しかし私たち はそういう方向を懐かしがったり、あるいはそういう方向を現 代に生かそう、復活してみようという試みは、これは無理とい うよりはほとんど歴史の流れに竿さす論理でしかありません。 もちろん、共同体生活のよかった面は沢山あります。社会生活 の面で、人間的な触れあいを求める上で、そうした時代の人々 の、地域に生きる人々の情の深さといったものを学ぶことは、 それとして大切てしょう。むしろ、現代に欠落したものとして 大切な要素でさえあります。しかし、信心の問題は別です。今 後の信心は、徹底して、個人に依拠しなければならないでしょ う。個人としての信心の確立を計り、その個人としての信心を どのように結集していくか、という問題にこれからは踏み込ま なければならないと思います。地域的な生活の中にも様々な人 々の生活が・信仰があります。もしも地域結合ということだけ で信仰の共同を計ればこれは直ちに信教の自由の侵害という問 題が生じます。従ってそういう方向に共同体があったからよか ったんだという問題ではなくて、それは歴史の流れの問題とし て理解し、信仰については徹底的に個人的な信心の問題として、 これからは捉え直す必要があろうかと思います。
 それから三つ目に「権力からの自由・権力の相対化」という 問題。近世という時代に権力に対する恭順・感謝というような 形で生きざるを得なかったという話をしましたが、そもそも仏 の世界の絶対性という見地から見れぱ、政治権力は完全に相対 化されるわけです。もっとも仏の世界の絶対性から見なくても、 ここ数年、いえここ数日間の政治情勢を見ただけでも、まさに 移ろいゆくのが権力の世界で、もうまったく相対的なものです。 それはともかくとして、およそ政治権力というのが、仏の世界 の絶対性から見れば、極めて相対的なものだということは、一 個人の人間の信心を大とし、国家とか民族などというものを小 とする見方を深く己れの中に確立する必要があるということで す。なお、このことに関して大切な一点は、こうした視点を、 親鸞の見地から再び捉えると同時に、これを是非とも仏陀の、 ゴータマ・シッダルタ見地から捉えていただきたいということ です。仏の世界の絶対性という問題は正に仏教の根本でありま す。そしてそこから政治権力を相対化するというのが、シャー キャ族の王子としての地位を捨てたゴータマ・ブッダの神髄で あります。出家ということ、出世間ということの意味の深さ、 その現代における意味について考えを深めていただきたいと思 います。
 それから四つ目に「現世における救済信仰の確立」という問 題です。蓮如の御文章自体は、詠嘆的な現世の否定であっても、 一向一揆のなかでは、闘うことによって今生で救済されており、 信心決定イコール如来等同の実践でした。しかし、江戸時代以 降は、それが来世一本やりの信仰に事実上矮小化・偏向してい きました。今日、この延長をそのままやってはならないでしょ う。今日はお話しする時間がありませんでしたが、岡山に幕末 に発生した民衆宗教に金光教という宗教があります。まさしく これは幕末維新の時代に、どのように力強く生きるかという問 題にストレートに答えた宗教でした。民衆の立場に立ちながら、 近代的な信仰心を確立して正にヒューマニズムと自尊の精神で、 迷信を完全に打ち破って新しい宗教を確立しています。そうい うような宗教が一方にあるということ、是非皆さん方も学ばれ ていただきたいと思います。それを再び親鸞の見地から、ある いは如来等同の見地から学び直す必要があろうかと思います。  次に「キリシタン禁制の歴史から」、そこから学ぶべきもの は何かについてです。立ち帰り宣言のなかにあったあの不屈の 信仰、これは信仰の内容如何を問わず、宗教者としてやはり学 ぶべき態度であろうかと思います。そしてそういう理解を我々 ができた時、他信仰の理解、他信仰者との連帯という問題がで てまいります。この時代は実に自由な法談がなされていました。 まだまだこの時代というのは、いろいろな法談が庶民のなかで 展開しておりました。今日の話のなかでは充分にそれを挙げる ことができませんでしたが、牢の中でいろいろな宗派のものが 自由に論証しあっている。また、そんななかでも、与次右衛門 は、他宗派の者を「お前の宗派は一体なんだ」と言うように非 難することはなかったということを他の宗派の者がこぞって認 めております。自己の信仰については、与次右衛門はキリシタ ンを非常に尊いものだと言い、優れたものであると説いたけれ ども、論争している相手の宗派を名指しで「お前の宗教はけし からん」ということを一度も言ったのを聞いた事がないという ことは、取り調べられた他の人がほとんど全員、ロを同じくし て言っております。そういうような節度ある論争、そういうよ うなものをキリシタンたちは行なっていたということを知って おく必要があります。これはやはり、ここまでは共通の部分が ある、というような見方ができるからでしよう。学びたい点で す。それから、やはり光清寺の恵海、宗教全般に抑圧的てあっ た光政に対して、処罰を恐れず堂々と批判する精神のなかに、 キリシタンをも包摂できる親鸞教徒としての信念が窺えると思 います。真の宗教者とは、信仰に生きるもの同士、連帯しあう ものなのでしよう。B番目として「民族主義から普遍信仰へ」 という問題。光清寺恵海の活動などがあったにも関わらず、そ の後の二百年の間に、キリシタンイコール邪宗の観念はすっか り定着させられ、その結果、明治の初年、神仏分離今を出して 事実上の神道国教化へと突っ走る新政府の一部官僚に対し、真 宗寺院・学僧の多くは、キリスト教と対決するには、神道より 仏教のほうが有益であるというような論法で護教運動を展開し てしまうわけです。完全に排外主義的な民族主義に陥ってしま っている。彼らの罪というよりは、二百年間の幕府の罪なので すが、仏教の精神は、そのような偏狭な民族主義であろうはず もありません。仏教の普遍的精神を深く学び、相対的な価値し かもたない国家のふりまく民族主義に決別し、真に人間を救う、 そして他の宗教と連帯し得る、仏教を確立していく必要がある でしょう。つぎに、Cとして「供養法事から本来の真宗法事へ」 という問題。真宗の法事が歴史的にも限定されたものであるこ とは先程述ぺた通りです。もちろん、親鸞が「父母の孝養のた めとて一遍にても念仏もうしたることいまだそうらはず」と言 っていたということは、皆さんはもう充分御存知のことだと思 いますが、これを、単に親鸞一人の供養否定の問題としてでは なくて、歴史の現実としてもそのように展開していたんだとい うことを常に思い返し、親鸞の、本当の真宗法要・法事という ものを、是非ともこれは真宗寺院のみなさん方の手で、新しい 真宗法要を追求し、つくり出しでいっていただきたいと思いま す。
 最後に「『檀家』の発想から個人の信仰へ」、ということ。 これはもう先ぽど、「共同体結合から個人の結合へ」というこ とで、その方向性については触れました。ここでは、ただ一点・ 「家」の信仰からの脱却ということをつけ加えるだけです。父 母から育まれた信仰的雰囲気や、寺として生まれ育ったなかで の信心というものは、それなりに自然で、ある人にとっては、 それ故にその人の原点でさえあるわけですが、しかし、それで も、信仰は結局は個人のもの、一人一人のものであるはずだと いうこと。このことを徹底的に頭にたたき込む必要があるでし よう。檀家イコール門徒というような発想は、もう捨てなけれ ばならないでしょう。真宗の信仰に生きる者こそ、そして真宗 の信仰・親鸞の思想に共鳴する者こそ、真宗門徒として組織で きるような、個人の信仰と個人の信仰で結合できるような、新 たな本当の意味での門徒集団を作っていくことが必要かと思い ます。私自身はここまで言えば、ほとんど信仰しているように 思えるかもしれませんが、実のところ、肝心なところで信仰の 世界に入れないものですが、皆さまのお役に立つことであれば いくらでもいたします。
 最後に「温故知新」という言葉を入れておきました。古きを 訪ねて新しきを知るということは、正に我々がこれから前進し ていく上での大きな力だと思います。この点で一つだけお話し しておきたいことは、それは宗教者のみなさんが親鸞に帰れと いう問題と、今日の時代状況の中でどのように活動するかとい うこの二つの、一見したところ二つの異なった方向を同時に追 求しなければ真宗興隆会の課題は実現できないという、非常に 難しい問題についてであります。この問題に取り組んでいくた めには、仏教の、そしてあらゆる宗教の、信仰の歴史を広く深 く勉強し直さなければダメだと思います。私はとても皆さんに はおこがましくて言えないのですが、大学で「仏教思想」とい う講義を一つ持っております。私自身は信じる立場ではないし、 仏教を信仰するための講義でもないということを学生に断った 上でやっておりますけれども、テキストとして何を選ぼうかと 思った時に、できれば私は真宗サイドのものをテキストとして 選びたかった。これを一年生つまり、高校を卒業したばかりの 大学一年生に教えるには、易しく書いたものでなければいけま せん。さらに、仏教思想とは一体何か、ということを教えるた めには、どうしたってこれは釈迦、ゴータマ・シッタルタの生 涯、彼がバラモン教・ウパニシャッド哲学との格闘の中からど のようにして無我の思想を確立したのかという、正に仏教の根 本間題を話さなければ、仏教思想の説明にはならないわけです。 そういう問題を真宗サイドで易しく説明しているものがあるか、 残念ながら見つかりませんでした。ほとんどの方はだいたい禅 宗であります。禅宗の方はこういう問題に多く取り組んでおり ます。しかし禅宗の方々の書く多くのものは、正直言ってなか なかしっくりこないものが多かった。しかしその中で敢えて名 前を挙げておきますが、秋月龍■(王+民)さんという方が書 かれた、いささかショッキングな題名ですが、『誤解だらけの 仏教』という、たいへんおもしろい本があります。これを本屋 さんで手にした時、例えば〈仏教は無霊魂〉である、〈仏教は 本来葬式・法事には関わらない〉、そういうようなタイトルが どんどんどんどん出てきました。ほう、これは面白そうだとい うことで、それをテキストにして教えています。秋月さんは臨 済禅の方ですが、親鸞をたいへん尊敬していると書いておりま す。そして親鸞の教説も所々に引用しております。親鸞とキリ スト教の共通性についても実に見事に展開しております。私た ちはいろいろなものを広く深く勉強して、特にインドの思想、 バラモン教からウパニシャッド哲学へ、そしてそこから悪戦苦 闘してゴータマ・ブッダが新しい仏教を樹立し、そしてさらに その新しい流れの中に、親鸞をどうそこに接合することができ るのか、それができなければ私は親鸞から始まって親鸞で終わ るだけであれば、それは現代に生きる親鸞にはならないと思い ます。この問題を是非とも皆さんの手で、私は仏教学者じゃあ りません、皆さんの手で解決していっていただきたいと思いま す。
 たいへん何か、何というか、非常に強い、偉ぶったような言 い方で、終始してたいへん申し訳なく思っているんですが、私 が日頃思っていることは、真宗が一番可能性があって、真宗が 一番たいへんだろうなと思うからこそ期待しているのです。皆 さんが根本的に今の体制を大きく変えるような新しい仏教の流 れを是非とも創り出していただきたいと思います。どうも長い ことありがとうございました。

 (司会)どうもありがとうございました。時間が気になると ころでございますけれども、折角の機会でございますので、皆 さんの方でご質問なりございましたら、どうぞご遠慮なくお申 し付け下さいますように。

 (質間者)
『誤解だらけの仏教』という本の出版社を教えて下さい。

 (奈倉先生)
 こういう本ですが、「柏樹社」という出版社です。『誤解だ らけの仏教』秋月龍■(王+民)第一章「仏教は無霊魂論であ る」。第二章「仏教は本来葬式法事に関わらない」。第三章 「仏教は輪廻説をどう超えたか」。第四章「輪廻説をどう超え るか」。第五章「仏教は無神論である」。第六章「梵我一如説 は仏教ではない」第七章「なぜ梵我一如説は仏教ではないのか」。 第八章「正しい仏教は土着思想と対決する」。第九章「仏教は 神秘主義ではない」。第十章「死者をホトケと呼んではならな い」。真宗とピッタリ重なるでしよう。この人どうして臨済禅 かなと思うのですが、でもやっばり臨済禅です。読むと真宗じゃ ないです。禅と真宗とは真理の深いところでは一致できて不思 議はないんですが・・・。 一読をお勧めします。

 (司会者)ほかにいかがですか。

 (質問者)すみません。どうも刺激的な、いろいろ今後やら なければならない課題を提示していただきまして、ありがとう ございました。えっとですね。2番目あたりにですね、「権力 への恭順と感謝」というようなことで、親鸞聖人と蓮如上人の 信相的な違いといいますか、片方がかなり現実を相対化して批 判的に対峙するという立場であったのに対して、もう一方はか なり詠嘆的無常観というものが強調されて、この世というもの に対してあまりウエイトを置かないという違いがあると言われ たのですれけども、これは蓮如上人ご自身というところだけの 問題ではなしに、むしろ親鸞聖人のですね、権力によって弾圧 を受けたというような、親鸞さんがどういう生き方をしたとい う、そういう理解の仕方そのものが、蓮如さんまでにある程度 作られてきてたのではないのかなという気もするのですけれど も、例えば親鸞さんが越後に流されたということに対して、そ れは辺鄙の群生を救済するために敢えて受け入れたのだという ような理解がですね、その後真宗の教学のなかにも出てきてま すし、そういう意味では親鸞とか、仏教・真宗と権力のあり方 というんですか、それは先生ご自身はどのようにお考えになっ ておられるんでしようか。ちょっと突っ込んだような質問で申 し訳ないんですけれど、もしもお考えになっておられたらお願 いします。

 (奈倉先生)
 たいへん大きな問題で、一言二言で言えない問題です。ただ 蓮如以前に、真宗教団の中にですね、親鸞の越後配流をめぐっ て権力との関係に対する捉え方が、すでにある程度出てきたん ではないかということですが、それはそういう面も確かにあっ たとは思います。蓮如一人に帰すつもりは全然ないわけで、と いうよりは私はむしろそこを必ずしも境目として捉えたんでは なくて、今日は親鸞と蓮如しか出しませんでしたから、それは そういう風に捉えられたかも知れません。ただ私は、権力との 関係というよりは、私が言ったのはむしろ現世否定の仕方が、 親鸞の否定の仕方と蓮如の否定の仕方ではニュアンスが違うと いう問題を出したんです。権力との関係ということを必ずしも 出したのではないのです。ただ権力との関係をもし別の角度か ら言えば、例えば越後配流の問題を親鸞が『教行信証』の末の ところにですね、自分のことを滅多に語らない親鸞が、自分が そういうふうに流されたんだという、私も師の法然と共に流さ れた一人だという、そういうことを語ったくだりの中に、はっ きりと、それは流罪を下した側に罪がある、天皇の側に問題が あるんだというごとを語っているわけで、それは親鸞の思想だ けかと言うと、それは例えば江戸時代でも現にその部分もちゃ んと削除されずに出回っていたわけですね。だから江戸時代の 門徒だってそれは読めた。従って絶対にそれは、先ほど言った ように越後に流されたから、むしろ辺鄙の地に教えを弘めるこ とができたんだというような一面からだけじゃなくて、もっと も、それはそれで私は大事な捉え方だと思いますがね、そうい う面からだけじゃなくて、不当だったのは権力だったんだとい うこともちゃんと読み取れるものが当時出てたんですね。だか らそういう権力批判的なものが全部抹殺されていたわけじゃな い、ということは大事なことだと思います。

 (司会)他にもどなたかおありかと思いますけれども、時間 の方の制限もございますので、これで終わりにさせていただき たく思います。先生どうもありがとうございました。



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