「念仏のサンガを目指して」


              元龍谷大学学長信楽峻麿

 信楽でございます。なつかしいお顔も拝見できますし、 また、初めてお目にかかる方もあろうかと思いますが、この たびの真宗興隆会の趣意書を読ませていただき、心から同 感いたすところで、今後ご一緒に勉強させていただくこと が出来るならばと今日の講演をお引き受けした次第です。 「念仏のサンガを目指して」と言うテーマで話すようにと いうことでございます。非常に限られた時間ですが、あま り時間のことを気にしないで少しレジュメを多く書きすぎ たわけでございますが、だいたいこのレジュメの線に従っ てお話を申し上げてみたいと思います。

一、今日の教団を取り巻く社会状況


 最初に、今日の教団を取り巻く社会状況について、しば らくお話ししたいと思います。

1、伝統原理の崩壊


 まず第一点は、我々の本願寺教団、ひろく言えば宗教教 団を取り巻く、日本国内的な、あるいは世界的な状況につ いて特徴的な状況を申し上げますと、先ず、伝統原理の崩 壊ということが言えるだろうと思います。とくに我々既成 教団に関わる者としては、特にこういう状況について考え ざるをえないと思います。いわゆる、古い歴史ある伝統の 論理、あるいはそれに関わる伝統の権威、そういうものが 今日の社会では音をたてて崩れさっていきつつある、ある いは行ったという、そういう問題であります。特にそのこ とを明確に示しますのが論理の問題であります。かっての 時代には原理論理といわれるものがございました。若い方 はもちろんそういう経験がないのですが、私ぐらいな、い わゆる戦前の小学校教育をお受けになった方々ならご承知 でありますが、戦前の道徳教育では、学校も親も原理的に しつけました。「人間は嘘を言ってはならない」あるいは 「人に親切でなければならない」そういう人間生活の筋道・ 原理というものを教えてまいりましたし、そういう原理に 従って、我々は人間の社会構造を判断し、その原理の如く 生きようとしてきたわけであります。しかしながら、ご案 内のように、今日ではそういう伝統的な原理論理、伝統的 な倫理的筋道というものは、ほとんど崩壊いたしました。 今日のような状況の中では、単純に「嘘を言ってはならな い。正直でなければならない」という原理を実践すること は殆ど不可能でありましょう。例えば、人が胃ガンになっ たときに、あるいはその他の恐ろしい病気になったときに、 それをそのまま病人に告げていいかどうか、むしろ嘘を言 った方がいいかもわからないというような問題、あるいは 人に親切であれと言ったって、今日そんな形で親切をして いたら、都会のど真ん中ではいつまでもバスや電車には乗 れないかも知れない。そういう形でかっての時代とは状況 が違う。そのときそのときの状況の中で、人間はいかに生 くべきか、いかに行動すべきかという問題が今日の社会状 況であります。いわゆる状況論理というような言葉が生ま れてきた所以であります。こういう状況の中で、人間のあ りようというものが一体どういうことでなければならない のか。そういうものが今日ではまったく明らかになってお らない。そういうことの中で、今の我々には、これは日本 を越えた世界的な問題でもありますが、人間としてこの現 代を如何に生くべきかということが非常に曖昧になってい る。そういう隙間をぬって、ご案内のような新々宗教、い わゆる新宗教を越えたもう一つの新しい宗教と称せられる ものが様々に生まれているという状況があります。いずれ 何らかの形で、新しい倫理というものは確立されなければ ならないでありましょうが、今は古きものが崩壊して新し いものがまだ定着していないという、そういう状況が我々 を取り巻いていると、大変単純に申しますと、そういうこ とが言えるかと思われます。

2、先行きの不透明


 二番目には先行きの不透明ということです。これは今日 の科学・技術の発展の中で、果たしてこのまま世界人類の 歴史は向上的に発展していくのかどうか、これについては 大変大きい問題をはらんでいることはご案内の通りです。 すでに様々な自然破壊が行なわれてまいりました。環境問 題も非常にやかましく言われております。例えば南極の氷 は速いスピードで溶けていきつつあるという。あるいはま た大気中のオゾン層が破壊されている。あのアマゾンの森 林も早いスピードで亡びつつあるという。そしてまた地球 の温暖化も進んでいる。そういう状況の変化の中で、果た して二一世紀は存在し得るのかどうか、このことすでに多 くの学者によって指摘されています。有名なフランスの作 家、のちに大臣もなさったアンドレ・マルローという方が こういうことを言っております。「二一世紀は再び精神の 世紀になるであろう。さもなくば二一世紀は存在しないで あろう」と。このまま物質文明の発展、科学・技術の発展 のみを中心に進めていたら、二一世紀は存在しないであろ うという。今日における世界の文明に対するマルローの警 告の言葉だと思います。このことは何も今更、私が云々す るまでもないことでありますが、戦後五〇年でこれだけ地 球の自然が破壊されたのです。このままでいいのか、人類 はこのあたりで新しい思想、文明を作り替えない限り、今 のままでは、もはや二一世紀は全うできないだろうと思わ れます。そういう事をめぐって、現代の人々、ことに今の 若者は先行き不透明な、そういう人類の歴史に対する大き な不安を持っているのではないでしょうか。かって私の姪 が中学時代に、学校から帰るなり、私に「おじちゃんたち はこのまま人生を終えるだろうが、わたしたちは年寄まで 生きられるかどうか、本当はわからないのだってね」と申 したことがあります。学校の授業の中でそういうことを聞 いたのですね。中学校の先生が子供にそういうことを言っ ているわけでしょう。自分たちの生涯が最後までは有り得 ないかも知れないという、心のかたすみで、どこかそうい う不安を抱きながら、学校で勉強し、また受験競争をくぐ って行こうという。ここに我々の少年時代とはおよそ違っ た状況がある。こういう問題が今日の我々の教団の周りに あるということです。

3、価値観の多様性


 三番目には価値観の多様性。これは今日多く指摘される ところであります。今日では何事についても、我々の考え 方、あるいは食べ物などをひっくるめて国際化の時代です。 うどん屋に入って「天ぷらうどん」を食べても、小麦粉は アメリカ、エビは南方のどっかの国から輸入された物、油 は中国産というようなことで、一杯のうどんさえも国際化 している。日々のテレビも刻々に国際的な事件や状況を伝 えている。そういう状況の中で、我々のものの考え方が、 非常に多くの情報に影響されて多様化してまいります。多 元的な価値観、価値の相対化であります。すでに今日では、 何か一つ絶対の間違いのないものがあると認識し、それに 向かって、その中心的な核に向かって、みんなが集まって いくというような、絶対的な価値観はうすれてきました。 いま若者の中でいわれているのに「面白主義」というのが ありますね。おもしろけりゃいいんです。為めになるとか 為めにならないとか、そんな堅いことは言うなと言うわけ です。これはテレビの番組をご覧になれば解ります。いつ もどのテレビにも顔を出しているタレントさんが、朝の早 い時期から夜おそく迄、とにかく面白く、そのときそのと きの適当な話題をタネにして笑わしている。それを結構若 者が手を叩いて喜んでいる。こういう状況です。大学の講 義さえも面白くなければダメだという風潮までひろがって まいりました。いわゆる相対主義です。これこそは絶対に 身につけねばならない、これだけは絶対守らねばならない という考え方は、もう段々なくなりますね。この状況は宗 教的なところにもっていくならば「仏さまこそまことだ」 というような、そういう発想は、もう現代の社会には通用 しない。なにもかもすべてが相対化されてきた。価値は非 常に多様化する。価値観が多元化する。日本の政治だって そうじゃないですか。自由党なり、共産党なり、社会党な り、それなりに一つのイデオロギーを旗印にして立った。 そういう政党色は段々薄らいで、連立ばやりです。「さき がけ」とやら、「日本新党」とやら、イデオロギーを表明 しない政党名のグループが生まれてきた。名前をまた変え てもよろしいなんて、最近どこかの政党の党首あたりが言 っている。今日では主義主張なんていうものは段々とあと ずさりしているようです。そういう意味で根源的な思想の 確立というものが希薄になっております。人類の将来はか くあるべし、人間はかくなければならないというような、 そんな堅い原理、原則というものが、今は殆ど崩壊してお ります。その意味で、今日ではさっき申し上げたような価 値観の多様化、相対化の時代に入っております。

4、本願寺教団はこの社会状況にどう対応するか


 以上、大変おおざっぱな事を申しましたが、そういうよ うな今日の社会状況の中で、我々本願寺教団はその状況に どう対応しているのか。いま申しましたほかに、もっとい ろいろな今日的状況が挙げられると思いますが、こういう 状況に対して、伝統の本願寺教団はどう対応なさろうとし ているのか。しかしながら、現実の教団は、自己保身性と 反社会性の色彩を濃厚に持っているということではありま せんか。これは残念ながらそう総括せざるを得ないと思い ます。教団はいろんな行事をいたしますけれども、対社会 的に、何か社会のために、この世の状況と積極的に切り結 んでいくという発想を持っておられるのか。今人類や世界 がどのように悩んでいるのか、現代社会のどこに問題があ るのか、日本の国はどうなりつつあるのか、我々はどうし なければならないのか、教団はそういう問題にもっと真剣 に目を向けるべきでしょう。まあ屋根の修復も大切であり ましょうけれども、その為めに金を集めたり、盛大に遠忌 法要を営んで事足れりとする。そういうことでは、社会の 人々が教団にどのような感覚を持つのか、もう申すまでも ないことだろうと思います。現実の教団事情はもはや社会 の変化に対応できないのではないか。今の状況を見る限り 私はそう思いますが、如何でございましょうか。もっと教 団に深く関わっていられる方もいらっしゃるでしょうが、 私が外から見ているとそう見えるのですが、そうでなけれ ば結構だと思います。私は思います。これからは社会的な 影響力を持たないような、そういう信心ならば、教団なら ば現代人はもう振り向きもしないでしょう。往生は一人し のぎだと昔から言われてまいりました。この世のことはど うでもよい、わが身のお浄土参りさえ整えばそれでめでた しだというような発想で、真宗念仏を、親鸞聖人の教えを 語る限り、もう現代人は振り向いてはくれないだろうと思 います。お念仏を申し、ご本願を信じて生きるということ が現実の社会にどういう意味を持つのか、そのことを明確 にしない限り、現代に真宗を語ることはできないだろうと 思います。このことは私が若いときからそう思いつづけ、 また大学の教壇に立って、若者にそのことを伝えてまいり ました。そしてその思いからここにいらっしゃっている幾 人かの方々とともに、もう三〇年近く前に教団改革運動と いうものを始めたこともありました。私はその時から一貫 して思ったことは、もはやこの大木は次第に老衰して枯れ ていくであろう。しかしその大木の根っこから新しい芽が いくつも出ている。その新しい芽をどう育てていくのか。 それこそが私のできる親鸞さまへのご恩返しだろうと考え て、思い続け悩み続けて今もって模索しているわけであり ます。下手をすると、この芽さえも枯れるかも知れない。 今新しい「念仏のサンガを目指して」といって集まられた 皆さんの真宗興隆会の思いは、その大木をもう一度復活な さろうとするのでしょうか、そうでなければこの教団をど うなさろうとするのか。これだけ多様化してきた現実状況 はそのまま教団の中に同じような状況を生み出しておりま す。教団が何かを一本化してまとめていこうという時代は もはや過ぎた。それぞれがいろんな立場から、親鸞聖人の 心を探りながら主体的に生きていくという、そういう時代 だろうと思います。これからは宗教は一層個人化、内面化 していくことでありましょう。真宗を学ぼうとするものは、 皆、親鸞聖人の心を懸命に模索しているのです。その姿勢 が真実であるならば、単なる古い伝統の原理だけで、異安 心などといって、それを非難したり、古い枠で囲ったりす ることはできないでしょう。今新しく念仏のサンガを目指 してとおっしゃる皆さんは、心ある方々を中心に、地方的 なローカル色を色濃く持ちながら、当地なりの伝統がある わけですから、そういうものを充分に生かしつつ新しい芽 をお育ていただけたらと思うことでございます。私のわず かな教団に関わった様々な思いと経験からするならば、こ の若い芽こそを、大事にするべきだろうという思いが、昔 も今も変わりません。

二、真宗伝道における基本姿勢


 そこで時間も限られていますので、そういう方向の中で 我々が現場の所で何をどう考えるべきかということについ て若干申し上げてみたいと思います。この辺りで教学問題 を問うてみたいと思いますが、少し話が固くなるかも知れ ませんので、それはちょっと止めて、今は現場のご住職の 皆さんのところに引き寄せて、伝道に関わる基本姿勢につ いて、いま少し、申し上げたいと思うことであります。

1、伝道における保守主義


 先ず第一には伝道における保守主義の問題であります。 今日における真宗伝道は、一般的には教条原理の一方的な 押しつけになっているのではありませんか。ちょっとこれ も言葉の言い過ぎかも知れませんが、まとめて申し上げた くてこんな事を言っております。そういう伝道の形式にな っているのではないかと思います。これは私がいろんな所 でご縁をえて、ご門徒の方といろいろ座談をします。お説 教だけでなしに座談をしているのですが、その質問がです ね、最近の質問は、非常に原理的な質問があるのです。こ の間でもあるお年を召された方が「機法一体というあの一 体とはどういう事ですか」という質問をされた。例えばそ ういう教条的な言葉の解釈にかかわる質問が多い。このこ とは本山の通信教育なんていうところにその原因の一つが あるのではないかと思います。聞法、求道という営みにつ いて、そういう教義、教条、その原理について理解する。 そういう発想が最近非常に多いように思うのです。こうい うように一方的に教理、原理を押しつけておいて、これを 伝道といいうるのか。このことは今日の大学の講義につい ても同じような問題がおきております。昔は大学の講義と いえば、たいてい原書を読み、原理を解説していくという ことが中心でした。従来は、例えばご承知のようにマルキ シズムの立場であれば、その立場から、歴史なら歴史を、 経済なら経済を、その視点、原理から解釈するということ でしたが、今日ではそういう方法はもう通用しなくなって きているようです。いろいろ他の学問の分野の研究者とも 話をして、真宗学も同じだと思うのです。大学の一年生に 入ってきた学生に、真宗を勉強するについて、直ちに如来 の本願とはどういうことだとか、今申しますような機法一 体とはどういうことだという、そういう抽象的、原理的な ものを教えたって仲々受けつけにくくなっているようです。 大学で教えるについては、はじめから抽象的、原理的に教 える時代はもう過ぎ去った。そうじゃなくって、現実の様 々な問題の中で、経済問題、政治問題、思想問題などにつ いて、その生きた問題の中に深く立ち入り、それを調査し 分析し、それについて説明し解決していくことを中心にし て、それを仏教とか、親鸞というような立場、その方法を 用いて、それについての解答を示していくという、そうい う仕組みの学問なり教育でないと、これからはとうてい受 け入れられない。いろんな分野の学問や教育がそうなって きているようであります。先にイデオロギーや原理があっ て、それを教授し理解し、真宗ではこう言うんだ、他の宗 旨ではこう言うんだと、現実の状況を無視してそんな原理 だけを押しつけても、そんな原理だけを聞いたって何にも ならない。大衆は現在、様々な経済や政治や人生や家庭の 問題などいろいろな問題で悩んでいる。その悩みに対して、 お念仏を学んだあなたは、どう答えてくれるのか、私のこ の悩みを解決するために何か力になるものを伝えてくれま せんか。民衆はそういう形で、何かを求めているわけでし ょう。その時に、何かの原理、お経にはこう書いてあると 言ったところで、そういうことを聞こうとしているわけで はないでしょう。これだけ複雑な社会状況の中で様々に悩 みつつその現実をどう切り開いていくのか。そのためには 様々な先人の知恵がある。教典がある、バイブルがある、 論語がある、あるいは様々な今までの先人の生きざまがあ る。その人たちの足跡を、自分の主体をかけて消化し、人 生化した人が、その現実との対応にどう答え、その解決の ために新しいエネルギーを与えてくれるか、民衆はそのこ とを求めているのでしょう。こういう方向で伝道を進めな いと、もはや現代人には本当に仏法を伝えられないのでは ないかと思います。しかしそういう視点から説明を求めら れた時、真宗教学には多くは答え切れない状況がある。昔、 私が学生の時、真宗学の和上に習った時に質問したことが ある。そしたらその先生が言った。「お前の質問がまちが っている。こういう質問をしなさい」といって、それに自 分で答えて、「わかったか」といった。またある真宗学者 が言った。「真宗の現代化というが、現代が真宗化しなき ゃならん」のだと。真宗が現代社会に近付くんじゃない。 現代社会が真宗に近づけというわけです。そういう保守主 義は今もって続いているのじゃありませんか。少し新しい こと、異なった角度からものを言うと、すぐに異安心と言 われる。大衆は自分の悩みを解決してくれる生きた話を聞 きたがっているのです。いくらカルテを詳しく説明しても らっても薬をくれなきゃどうしようもないわけです。

2、現代人の生活態度−その無宗教的性格


 二番目に申し上げたいのは、現代人の生活態度について です。それはもう殆ど無宗教化してまいりました。しかし、 現代人はいよいよ多くの悩みを抱き、迷っているのです。 昨今は忙しくてご縁がないのですが、かって朝日新聞社の 大阪、神戸、京都のカルチャーセンターにご縁があって参 っておりました。その参加者は可成の高いお金を支払って、 おいでになっているのですけれども、皆さんはいろいろと 悩みを抱えていられます。「家内がこの間ガンで死にまし た。私もやがて死ななければならないと思うが、聞きに行 くところがないからここへ来たのです」あるいは「家庭の 問題でこどもがグレちゃったから、心の支えが欲しい」と いうようなことです。そういう心の悩みを、お寺、真宗の 僧侶のところへ行って聞こうというよりか、もっと身近な ところで簡単に入れる門のところへ行こうとするのです。 あるいは、自分の玄関口まで来て話しかけてくれる人の所 へ行っちゃうのです。新しい宗教が大きな力を持ってくる わけでしょう。現代人は悩んでいるのです。問題はその悩 みを宗教的に、仏教的に、真宗的に解決する道が解らない のです。もちろん真宗の伝統のある所ならば、ご門徒の皆 さんが住職さんに相談に行くという、まだそういう雰囲気 のある場所も、皆さんの地域には随分多いかと思います。 しかしもう都会ではだんだんそういうものがなくなりまし た。お寺に行って自分の人生の悩みを打ち明けて、何かの 教えを請おうという、そういう状況はかつての時代のこと であって、今はそうなっていない。しかし我々の本願寺教 団の伝道体制は、そういうものには殆ど対応していないの ではないですか。

3、フィールドワークの姿勢


 そこで三番目に挙げましたのが、今日では何よりもフィ ールドワークの姿勢が大切であろうということです。真宗 は現代人の悩みにどう対応するのか。相談伝道、これはカ ウンセリングの理論に基づく伝道が大切だと思います。す でにご勉強になっておられる方もあるかも知れませんが、 そういう側面で関わらない限り、これからは本当に仏法は 伝わらないだろうと思います。仏法を伝えるについては、 昔の人がちゃんとそういうことをやってきているのですが、 一つはお説教です。専門家、僧侶が一方的に大衆に向かっ て宣伝し、説得していくわけです。真宗とはこういうもの だ、真宗のよさとはこういうことだと。こういう一つの伝 道形式があります。もう一つは、一対一の伝道形式です。 これを真宗では古くから示談と呼んでおります。一人一人 の悩みを受けて真宗の僧侶が、自分の経験を、あるいはま た教学の論理を背中に背負って、それを消化し、人格化し た形で、一対一で対話をするという方法です。それからも う一つは体験発表であります。非常に深い信心に生きてい る人、あるいは様々な悩みを抱きながら信心にまで到達し た人、あるいは未完の人、初歩の人を含めて、自分はこの ようにして仏法に出会ったとか、私は今このように真宗を 聴聞しているということなどで、そういう体験を語るとい うことです。これらがちょうど三角形の三辺みないな形で うまく進むならば、伝道はうまくいくだろうと思います。 ところが体験発表とか示談というものは、対応する人が深 い教学的なものと信心を身につけていない限りむつかしい ものです。ただ一方的にしゃべっておけばいいと言うなら ば、これは何とかなります。しかし、昔から真宗伝道では されてきているのです。蓮如上人の伝道形式を見ればよく わかります。法座の席では「ものを言え、言え」とおっし ゃっている。それは親鸞聖人についてもいえることで、そ ういう形式でやはりお念仏を伝えられ、そして広められた ということがよくわかる。『歎異抄』第二条の唯円房との 対話等々をご覧になればよくご理解できましょう。どれだ けお説教しても、お話を聞いても、それだけではジョウロ で水をかけるようなものです。その時には、服の上からし っぽり濡れて、「今日はいいご縁であった」と思って帰り ますけれども、少し時間がたったらもう乾いてしまう。身 には染まないです。真宗信心というものは自己変革です。 己れの皮が脱がれていかなければなりません。そういうこ とが成り立つためには対話が一番大切です。これは東本願 寺・大谷派の方です。この人は真宗の深い信心に生きられ て、今では在家のままで懸命に教化の第一線でお働きにな っている人ですが、自分の所属するお寺の住職が、是非と も壮年会を始めたいからといって、壮年の人たちが招かれ てある夜お寺に集まった。その時に始めて、お寺の本堂に 座ったというのです。その時に住職が挨拶をした。教団は これから壮年の教化を大切にせよということで、どの寺で もそういうものをつくらなくてはならないということにな ったから、この寺でも壮年会活動をやろうと思うけれども、 よろしくと言った。そして私は長い間僧侶をし、大学でも 勉強したけれども、実際には信心はない、仏法はよくわか らないという悩みをとつとつと語ったというのです。そこ でこの人は、うちの住職はそれほどまでに誠実な人かと、 改めて驚いたというのです。私がわからないのと、あの住 職がわからないというのと中身が違うだろうけれども、私 は商売をしている。商売をしている男が、自分で売ってい るものが、何やらわからないという、よくもそういうこと が言えたものだ。驚愕的なショックを受けた。それほど誠 実な人ならまちがいない、この住職について、とことん勉 強しようと思ったということでした。真宗の伝道、聞法と いうものは、そういうものだと思います。大学の試験に受 かって単位がとれて、本願寺の安心の試験に合格してこれ でお浄土まいりが決まる。そんなものじゃないと思います がいかがでしょうか。お念仏に生きるということはそうい うことじゃありませんか。親鸞聖人も生涯「真実の信心は ない」とおっしゃった。しかし、そう言いながら、親鸞さ まは信心を懸命に生き、お念仏を伝えられたのであります。 問題は観念や形式のレベルではなくて、人間の生きざまそ れ自身を現代人は求めているのです。そういう方向で問わ れるのは、我々僧侶の人格性の問題だと思います。しかし、 そういう僧侶をつくると、教団は成り立たないと考える教 団の体制ムードがあるのではありませんか。私は事実そう 思います。さっき申し上げた自己保身性の問題です。お寺 の有りようもそうです。外観的にいくら形式をととのえて も現代人はすでに見透かしています。現代人の仏教に対す る批判はきびしいです。今までの伝統はすでに崩れている のです。現代人は自分で納得しなければついては行きませ ん。こういう状況の中で、真宗はその伝道をめぐって、一 体これからの有りようをどう考えるのか。

三、真宗信心における社会的視座


 そこで、これから現代人に向かって真宗を伝道するにつ いて、いかに考えるべきか、それについて、問題はいろい ろございますが、時間が限られていますので、ただ問題提 起をするだけで終わりますが、私が昨今思いますことは真 宗信心における社会的視座、の問題です。さっき申し上げ た真宗信心は現実の社会にどう関わるのか、今日的な諸問 題とどう切り結ぶのか、という視点を抜きにして、信心を 語ることはできないということです。そのことを欠落して は大衆はついては来ないだろうと思います。信心に生きる ということ、お念仏を申して生きるということが、現代の この複雑な社会にどう関わるのかという視点がもっとも大 切だろうと申し上げたいわけであります。

1、科学と宗教


 そこで、そういう課題をめぐっていくつかの問題がござ いますが、その一つに科学と宗教ということがあります。 これは大変大きな問題があります。さっきちょっと触れま したが、現代の科学・技術という問題に、宗教、精神がど う切り結んでいくのか、このことなくしては、これからの 科学・技術はさっき申し上げたように世界、人類を破滅に 導くことになるのではないか、こういう問題が既に言われ ています。ちょっと話が脱線しますが、去る一九八九年、 平成元年に龍谷大学が創立三五〇周年を迎えました。そこ で、何か記念の行事をしなければならない。私には誇りあ る三五〇年を何かの形で、龍谷大学の将来のための発展の 礎石としたいという思いがありました。そこで心ある方々 に呼び掛けて考えた事は、我が大学は三五〇年、親鸞聖人 の教えを基にしてその心を学び、それを究めて来たけれど も、これから親鸞聖人の心と現代の社会とをどう切り結ば させるか、現代にふさわしい新しい大学の建学の精神の解 釈を試みようということで考え出したのが、「人間・科学 ・宗教」という基本テーマであります。これがこれからの 龍谷大学の建学の精神であれという大胆な私の主張であっ たわけです。ご案内のように。龍谷大学は伝統の仏教、真 宗を基盤とする文学部から経済学部、経営学部、法学部、 理工学部、社会学部、そして短期大学部のさまざまな分野 にわたる学問なり教育があります。これらを束ねてそこに 親鸞の心を貫徹せしめるということになった時にこういう 形になったわけであります。そこで各学部の先生方にお願 いしてそれぞれシンポジュウムなり講演会を、世界的に有 名な学者を集めてやりました。理工学部の先生たちが世界 的に著名な学者を招いて「科学者の役割」というシンポジ ュウムを開かれました。経済学部の先生によって「生命系 の経済」という講演会とシンポジュウムを、法学部の先生 によって「生命倫理」というテーマでの講演会とシンポジ ュウムを、世界的な研究者を招いて行いました。また文学 部の先生によってはハーバード大学の協力をえて「親鸞と 現代」という講演会とシンポジュウムを、また中国や韓国 の学者を招いて「仏教東漸」のテーマで講演会とシンポジ ュウムを開催いたしました。それを学生に聞かせ、また世 にこれを問うたわけです。それらはすべて本になって印刷 出版されておりますが、ここに「人間・科学・宗教」と揚 げました私の思いは、科学は人間の幸せのためにという目 標を忘れてはならない。また宗教は本当の意味での人間成 長に役立たなければならない。人間は様々な煩悩を抱えて 畜生に等しい衆生であるけれども、同時に衆生の中では、 ひとり仏にまで成長できる、そういう可能性を秘めた存在 が人間である。それを教えたのが仏法であり親鸞さまであ る。さすれば科学というものも宗教というものも、この一 点に立たなければならない。科学は人間の成長のために、 人類の発展のために存在しなければならない。宗教もまた そのことを目的としなければならない。単に伝統のままに、 観光寺院であったり、葬式仏教であったりしてはならない。 科学も宗教もその本来のありようは人間のためでなければ ならない。そうとすれば今申し上げた我々の大学の各学部 は、本質的には真宗・仏教に帰一できると考えたわけであ ります。それで人間・科学・宗教と名付けた。今も私はそ れをことあるごとに申しておるわけであります。その科学 者の役割というシンポジュウムにおける討論の中で出てき た問題は、科学自身に問題があるのはなくて、科学・技術 を利用する人間の側に問題があるということで、人間がい ろいろ問われました。人間生活と科学・技術のバランスの 問題であります。科学・技術というものはご承知のように ヨーロッパの文化を背景にして生まれたものであります。 そのヨーロッパの文化を代表するものに、キリスト教の文 化があります。それを非常に単純に引き寄せて申しますと、 言葉が足りなくてお許しいただきたいのですが、キリスト 教ではご承知のように神が人間を自分に似せて造ったとい う。そしてあとの一切の生きものを人間のために与えて下 さった。空を飛ぶ鳥も地を這う獣も海の生きものも。だか ら人間は他の一切の自然なり動物を捉えて、それを自分に 取ってどれだけ利用するかということは自由である。そう いう視点から西洋では、いろんな形で他のものを客観的に 捉えて、それを分析し統合しながら解明し利用するという 学問が発達したわけです。ところが東洋の論理は、ご承知 のように人間だけが生命あるものではない。猫も犬もみな sattva(衆生)として平等である。生まれかわり死 にかわりして、みな一つの生命に連なっていると考えまし た。その発想はインドから中国を通って日本に伝えられま したが、中国では、いろんな植物まで、人間の命と交流す るんだという思想が中国仏教の中で生まれてまいります。 人間は草を食べて草となり、草は人間に食べられて人間に なるということを中国の仏教は教えます。それが日本に参 りますと「草木国土悉皆成仏」と説く、小さな石ころ、鉱 物までに人間の生命と共通の生命があるんだということを 見出した。親鸞さまも同じようなことをおっしゃっていま す。自然の一切の存在を等価値に見る、そこに共通の仏性 を見る発想であります。そこではそれを分析し統合してそ れが何であるかを解明し、またそれを有効に利用するとい う発想は生まれようがありません。東洋に自然科学が生ま れなかった理由です。みんな仏の生命を宿して、みんなが 平等だというのです。もし科学・技術が本当に人間一人一 人の幸福、その成長の方向に進歩していくためには、私た ちが自分たちを取り巻く自然を人間の欲望にままに利用し ていいという発想から、生命を連帯しているという発想、 だから人間の欲望をコントロールするという発想、そうい う東洋の論理、思想を取り入れない限り、科学は人間を亡 ぼすだろうと思う。科学・技術が悪いのではありません。 人間の基本的な生きざまが問われているのです。ご承知の ように、テレビでご覧になって皆さんお気づきでしょうか。 「この印籠が目に入らぬか」という番組です。私も忙しく てたまにしか見られませんがあの番組を見た時いつも思う。 なんであの時に鉄砲でパチパチ撃たないのかということを。 種子島の鉄砲は織田信長の時代に移入された。江戸時代に は鉄砲はいくつもあったわけです。しかもご承知のように、 豊臣秀吉そして徳川家康の時代のいろんな合戦の時には、 機関銃の原理を考えているのです。それぞれが弾丸を込め て、一発づつ撃ったらすぐ下がる。次がまた撃つ、次が撃 つという人海戦術でパチパチ撃ち続けたのです。もう少し 日本人が知恵を働かせていれば、何連発というのはすぐで きたはずでしょう。しかし江戸時代三〇〇年の間、その鉄 砲をあまり使わなかったじゃないですか。「飛び道具は卑 怯でござる」といって、人間の欲望を人間の理性なり道徳 がちゃんとコントロールしている。やればできる。しかし やってはならない。人の生命の尊さを思い、一定の原理で 自分たちの欲望を押さえたのではありませんか。これが我 々先祖の生きざまです。
 そういう生きざまが今我々の社会では消えている。あま りにも消えている。人間の欲望のままに、山を切り開き、 あるいは大地を掘り、さまざまな害毒を大気の中に流し続 けている。私たちはこれでいいのだろうかと思う。ここに 科学・技術の発展に対して東洋の論理が、仏教の心はどう 発言するのか。江戸時代では、広島と和歌山は真宗信心の 盛んなところでした。だから、そこではあまり堕胎をしな かった。だから、米の生産高に対して人口が非常に多かっ た。人口過剰の国だった。だから明治になって、一番最初 に海外へ渡航したのは広島県や和歌山県、それに熊本県な どであった。したがってアメリカやブラジルの日系人社会 では真宗が栄えているわけです。徳川幕府は堕胎をしては いけないと言いましたけれども、それは建前だけであった。 米の生産高にかかわって人口は規制せざるを得ない。東北 あたりは堕胎が非常に多かった。これには地域的な事情も あろうが、私はそこに仏教、真宗の信心の問題が関わって いただろうと恩う。例えば、かってはそういうように我々 の欲望をコントロールする論理と作用が仏教にあった。如 何でしようか。今日の仏教は、現代の社会状況に対して発 言すべきことがあるのではありませんか。我々仏教徒のあ リよう問われるのではありませんか。

2、倫理と仏教


 続いて倫理と仏教の問題についていささか述べてみるこ ととします。それについては人権問題、労働倫理、生命倫 理、環境倫理など、今日的な倫理の問題に対して、真宗や 仏教はどう発言すべきか。こういう側面を欠落して教学を 論じては現代人は納得しないだろうと思います。そういう 意味でそれぞれのテーマは大きい意味を持っていると思い ます。いずれも大切な問題ですが、時間が限られています から結論だけを急いで申し上げたいと思います。
 先ず人権問題、人権の問題はご案内のように、これはヨ ーロッパの近代思想の中から生まれて来たものであります。 人間は本来生まれながらにして平等であるという、そうい う近代の人間の英知から、こういう人権の思想が生まれて 来ました。それは一八世紀のころ、アメリカの独立宣言や フランスの人権宣言などの中に、そういうものが明確に謳 われてまいりました。仏教はこの近代思想としての人権思 想とどう切り結ぶのか、仏教にはこういう思想はなかった のではないか。私はかってアメリカにしばらく滞在したこ とがありますが、アメリカにおける人権尊重の徹底さは、 それは我々の社会から比ぺると格段の違いがあると思いま す。しかしまた、アメリカの現代社会の中に非常に深い根 として民族差別というものが歴然として残っています。ほ んとうに人権思想が徹底されるためには、これはやはり、 単に社会科学的な哲学、思想だけでは解決できない。もっ と本質的な問題というものがあると私は思わざるを得ない。 そういう意味では、この問題についても仏教が発言すべき 理由が存在していると思います。私はそれについて究極的 な絶対価値、真実というものを持たない限り、人間は生ま れながらにして平等だという、この論理だけでは、本当に 人間の平等性は徹底できないのじゃないかと思う。「よろ ずのことみなもてそらごとたわごとまことあることなきに、 ただ念仏のみぞ、まことにておわします」この言葉は、徹 底的な人間平等の思想が成立する根拠だと思うのです。念 仏だけが真実であって、あとはすべてそらごとだと言う。 これは恐るべき思想だと思います。どれだけ現実に様々な 差別構造があり、いかなる権威がまかり通っていようとも、 親鸞さんの言葉「よろずのことみなもてそらごとたわごと まことあることなし」のところに立ったら、すべてがひっ くりかえる。こういう世俗の現実に厳しく切り込める思想 を通してこそ、はじめて本当の人間平等の思想は生まれて 来るのではないかと思います。これは結論だけです。
 それから次に労働倫理の間題に移ります。労働という問 題、職業の問題、これは仏教においても大きな問題だと思 います。私にとって労働とは、働くとは何か。我々は何の ために働くのかという問題、これはかっての古い時代には 念仏者にとっては明確に自覚していたと思うのですけれど も、今はそれが曖昧になっているようです。何のために働 くのか、まあ簡単に言えば食うために働く。これが一般論。 食うために働くのなら泥棒も働いている。それは生業であ る。生きるための業です。しかし、職業ということになる と、職分としての作業です。この社会に生きている限りそ れぞれの職分がある。責任があるから、その責任の一端と しての仕事をしている。これが職業でしよう。しかし、労 働というものが、生業でもなく、職業でもなく、働くとい う生きざまが、私の「道」となるならば、すばらしいこと だと思います。華道、茶道ということが言われますけれど も、古くは農民道、商人道といったようなことばがあった ように、それぞれが道にまでなるならばと思います。時間 がないので、もうちよっと結論を急ぎます。労働を自己目 的化するということです。これは親鸞さまの教えに根拠し て申し上げているのです。浅原才市の歌に「ありがいな、 娑婆ですること、稼業営みすることが、浄土の荘厳にこれ が変る」とありますが、このような才市さんの発想には、 すばらしい労働倫理があると私は思います。稼業を営むこ とがお浄土の荘厳になる。親鸞さんの思想にもこのような 発想があります。親鸞さまは『教行証文類』の中で、ある いは仮名で書かれたものの中でがおっしゃっているのです が、私たちがこの世で念仏申すことによって、その一つ一 つのお念仏に応じて、私の浄土に蓮華の華咲くとおっしゃ る。綺麗に出来上がっている浄土に行くのじゃない。私の お念仏、そのお念仏に応じて私の浄土に蓮華の華が咲くと いう。こんな発想は自力だとおっしゃるでしょうか。詳し く申す時間がありません。お赦し下さい。才市さんは、始 めは船大工をして後には下駄をつくって一生を生きていっ たのですが、それはすぺて、自分が生まれて行くお浄土を 美しく飾ることであったというのです。ここには労働を自 己目的化した真宗独自の職業倫理があります。労働がすな わち仏道だというわけです。真宗における労働倫理はかく あるべきだと思います。結論だけ申し上げました。
 それから生命倫理の問題。これはさっき申し上げた科学・ 技術と仏教の問題です。ご承知のようにこれから日本でも 臓器移植が始まります。これについては、始めは社会党あ たりは反対していらっしゃったが、今度政権政党になった ら、社会党から委員長が出て、臓器移植の法案をお作りに なるようです。まあ政治というものはそういうものでしょ う。しかし私はこれは問題だと思います。時間がございま せんので、ずぱり申しますと、臓器の有効利用が優先して、 人間の生命の軽視が生まれてくるであろうと憂います。心 臓や腎臓の病気でなやんでおられ、他人の臓器が欲しいと いわれる個々の方々のその立場は、とやかく言いませんけ れども、こういう事が日常化していくならば、これは大き な問題を持って来るだろうと思います。脳死はほんとに人 の死といえるのか。生命とは何なのか、死とは何なのか。 この問題について、仏教徒はだまっていていいのか。真宗 僧侶の中には、親鸞は「死骸は鴨川に流して、魚の餌食に 与うべし」と、おっしゃったから、臓器は他人にやってい いという人がいます。またこれが菩薩道だとおっしゃいま す。真宗でもやがてそういう方向で話がすすんで行くだろ うと思いますがそれでいていいのか。ある国では死刑囚は すべて銃で頭を撃たれて殺され、その臓器を利用されてい るといいます。またある国では臓器の売り買いが始まって います。ほしい人に対して提供する人は限られていますか ら、値は高くなるわけでありましよう。人間の心臓はまだ 動いているのに、どうせ助からないからといって脳死を人 の死と見なし、その臓器を取り出して利用するという、こ ういう論理を優先して、ほんとうに人類の未来は明るくな るのか。
 それから環境倫理の問題、これについても仏教の側から の発言があってしかるべきだと恩います。すでに申したよ うに、仏教−ことに日本の仏教においては、いっさいの存 在に共通の生命を認める発想をもっております。現代の科 学・技術の立場は、いっさいの存在を人間中心の有効性か 無効性かの判断に立って、その「価値」を問題としますが、 仏教の立場は、むしろそのものが宿しているところの「意 昧」を問題とし、それを活かすことを考えます。今回の環 境問題について、このような仏教徒の視点から発言するこ とも、きわめて意義あることであろうと思います。

3、政治と仏教


 もう時間がなくなったようですが、あと政治の問題。こ れもご当地の尺一先生あたりが靖国訴訟でご苦労をいただ きましたけれども、これはこれから大変大きい問題を持っ て来るだろうと思います。宗教と政治の関係はいかにある べきか。今日このごろの新聞をご覧になれぱ、もう当然に この問題を考えざるを得ないだろうと思う。今の政治の中 で、これから宗教と政治はどう関わるのか、大きな問題で あります。これからは、そういう問題を抜きにして真宗信 心の話は語れないと思います。この宗教と政治の関係につ いては、基本的には三つのタイプがある。その一つは政治 と宗教が重層するタイブ、日本の歴史の中でいえば、古代 におけるいわゆる祭政一致と言われる明治の始めの神道イ デオロギーと天皇制の癒着の如きものをいいます。それか ら第二には奈良時代みたいに政治が仏教を支配する、ある いはまた逆に西洋で見られたような宗教が政治を支配する ようなタイブそれからもう一つ、宗教と政治が対立すると いうタイプです。親鸞聖人の時代、これは日本の歴史の中 では、あの時代特有だと思いますが、法然・親鸞・道元・ 日蓮あたりは、皆政治と非常に激しく対立しております。 これは弾圧も受けますし、また逆にものも言っています。 まあ弾圧するとか批判するとかは別にして、やはり宗教と 政治は別立しなければならないと思います。宗教は政治に 対して一定の距離をおかなけれぱならないと、私は宗教の 歴史を眺めてそう考えるわけです。だから宗教政党という ものは、これは宗教本来のところからは必然的に矛盾を持 つと思います。政治というものは、敵か味方か、敵なら殺 せという論理でしょう。しかし宗教というのは、一人一人 がですね、どういう立場の人であろうと、その一人一人を 大切にするところから出発します。すなわち、政治は鳥が 高い空から下を見下ろしているようなものであって、個人 は問題にしません。社会全体の向上を考えます。いつも鳥 瞰図的に、例えぱあそこに山があるからそこを削って、こ この川をせきとめてダムを造れぱいいというように考えま す。ところが宗教というものは、一人一人を大切にする。 その成長を目ざす。どういう立場の人であろうと、一人一 人が、虫瞰図的に、虫がこそこそと地上を歩くようにして、 個々の立場を大切にする。政治はそんなこととは関係ない。 個々の問題はすべてお金で補償してやるというようなもの です。両者は本来的に矛盾するものだと思う。だから宗教 というものはつねに政治とは違った側面にたたなけれぱな らない。しかしながら、政治というものは常に宗教を利用 しようとします。中曽根首相が靖国神社に公式参拝したの はそういうことでしょう。「靖国神社がなくして何で若も のが国のために生命を捧げるか」とまでいっています。だ からやっぱり靖国神社は、若ものの生命を国家のために捧 げさすための装置なのです。政治はこういう認識です。ま さしく宗教が政治に利用されているのです。かって浄土真 宗も政治権力にさんざん利用されました。だから宗教は政 治に対して距離を置かなければならないと思います。
 それからもう一つ、政治に関わって大切な問題は平和の 問題です。それについて、私はこんなことを思います。阿 弥陀仏の四十八願に学ぷことです。すなわち、その第一願 はご承知のように、無三悪趣の願です。第二の願は不更悪 趣の願、三悪道にかえらないという願です。この二つは同 じことを誓ったものです。それは我々がお浄土に生まれた ら、浄土の人間は、貧欲、瞋恚、愚痴の三つの煩悩、三毒 の煩悩、それを象徴化したものが地獄、餓鬼、畜生という 三悪道だと思いますが、そういうものを離れるということ、 我々人間をして煩悩のとらわれから解放せしめようという ことを誓った願だと私は思います。だから、それは個人の 自由を誓ったものです。自由とは自らに由るということで、 自由とは、Libertyを明治になって翻訳した言葉で すが、もとはお経に出て来る言葉です。この自由というの は、また親鸞さんのおっしゃる自然法爾の自然にも重なる のです。自在という言葉も、もと仏教の言葉で自らにおい て在る、ということで自由と同じ意味です。そういう形、 それは煩悩をなくすることです。そこで次の三番目と四番 目、その第三願は悉皆金色の願、浄土の人々はみんな同じ 金色に輝く人になるという。これはどうしてそんな願が出 来たかというと、これは当時の浄土教が成立した地方の社 会状況を反映しているわけで、そのころさまざまな差別が あったのだと思うのです。そして第四番目は無有好醜の願、 好いとか悪いとか、美しいとかみにくいとかという、そう いう差別が無くなった世界をつくろうとする願。これは二 つとも社会の平等性を誓った願だと思います。あとの第五 願から第十願までの六つの願が六神通の願です。そして第 十一願が心至滅度の願、ここまでが浄土の基本的な理想を 誓った願なのです。それから第十二願から第十七願までは 仏身荘厳の願、阿弥陀仏の在りようについて明かしたもの です。そして第十八、十九、二十願はご案内の通り衆生摂 取の願です。そして第二十一願より後は救済勝益の願、信 心を得た者の利益を誓った願であります。そこでこの第一 願から第四願までは、人間が求むぺき究極の理想を示した もので、この四願が四十八願の基本になる願だと思うので す。ご承知のように、四十八願というものはもともと二十 四願から膨らんできたものですけれども、その原型のとこ ろに、これらの願が出てきます。私は人間世界の根本的理 想をここに設定して説かれたのが念仏の教えだと思う。し たがって、このような浄土を理想としてこの現実を生きて いくのが我々念仏者の基本の在り方だと思う。このことは 既に、鈴木大拙氏がふれ、それに従って西田幾太郎氏が晩 年に言われた言葉ですが、「この世に浄土の影を映す社会」 をつくると言うことにも重なるものであります。この現実 世界に浄土はつくれないにしても、せめて浄土の影が映る ような社会を築いていくべきでありましょう。このような 基本原理にしたがって、我々の政治理念を常に高々とかか げながら、この理念に従って、現実の社会を批判的に捉え て行動していかねばならないと思います。
 それから平和の問題については、憲法の第九条をめぐっ て、やがて論戦が始まるでしょうが、ぞのような即今の日 本の政治状況の中で、仏教徒はそれについていったいどう 考えるのか。『観無量寿経』の中では「慈心にして不殺」 と教えられた。殺してはならないと教えられた。また『大 無量寿経』では「仏の遊履するところは兵戈無用」と教え られている。我々はこの問題をどう考えるのか。国際貢献 という問題の中でさけては通れない問題でしょう。こうい う問題は非常に複雑だから、いろんな考え方があるから、 あまり深入りしない方がよいということでしょうか。しか し、こういう今日的な問題を全部見過ごして、お念仏の教 えをほんとうに現代人に語りうるのか。たいへん巌しいこ とですが様々な試行錯誤の中で、こういう社会問題を自分 の中に取り込んでいくという、そういう方向で学習を進め、 そして真宗者の今日的な在り方を切り開いて行くという、 そういう営為の中でしか、もう私たちの教学や教団は変革 できないだろうと思います。外なる異質なるいろんな問題 を抱え込んで苦悩しない限り、内々の者だけで外の異質な ものは全部排除して、まあまあという形でやっていては、 何も新しいものは生まれてはきません。親鸞聖人に学ぼう とする者が集まって、現実の社会状況と血みどろの闘いを 続けながら、少しでもコマを前に進めていく以外に、新し い時代に対応する真宗教学、真宗教団は生まれないだろう と思う。私は今つくづくとそのことを思います。身内だけ が集まって、なあなあという形でやっている限り何も変わ りません。しんどいけれども、異質なものをいっぱい自分 の中に取り込んで、それとの苦しい闘いの中でのみ自己変 革が生まれてくるということを、私は自分の生活経験を通 じて、いま皆さんに訴えたいと思うことでございます。
 時間が参りました。たいへん大ざっぱでありますが、以 上をもって私の話を終わらせていただきます。御静聴あり がとうございました。



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