慈光 平成12年初夏号
ほのぼのと 散りくるいのち
花びらを 両手にうけて
ああ そよ風の 木々のみどりよ
さわやかな ひかりのなかに
親鸞さまは おわします
『ひかりのなかに』
常本 奎吾 詩
降 誕 会
浄土真宗の開祖 親鸞聖人の御誕生は、承安三年(1173)五月二十一日で、真宗各派では最も尊い祝日として御本山をはじめ関係学園、各寺院で降誕会を盛大に祝賀いたします。
歴史年表を繰り出して見ますと聖人の青年期は『源平合戦』の最中であり、都大路には、生首が転がり、人々は今日は平氏明日には源氏にと血で血を洗う無常の世の中でありました。生来、宗教的感性の鋭かった聖人が『生死出ずべき道』を求めて南都北嶺をさまよわれたのも当然の事と推察いたします。
もともと中途半端な妥協をされる性格でなかった聖人は、比叡山に於いて伝えられるあらゆる難行苦行を身を以て体験されました。そこで人間の持つ煩悩の深さ、思惟の限界を見定められ、建仁元年『雑行を棄てて本願に帰す』と心境を述べられ、吉水の法然上人の念仏門に信仰を託されたのです。
聖人はこれ以後、生涯を(僧に非ず 俗に非ず)と宣言され、農民と共に家庭生活を営みながら(=非僧)敢えて生計を他に求めず、清貧に甘んじて念仏往生の道を一筋に人々に説かれた(=非俗)のであります。
ここで日本に仏教が伝来して以来の伝統的な貴族仏教をひるがえし、庶民と共に歩む在家仏教が開顕されたのであります。聖人はその意味で宗教の大改革者と崇められるべきであり、その後、日本の思想界に与えた影響は計り知れず、現実の生活に根ざした、人間救済の宗教としてあるべき姿を指し示された希有の聖者と讃えられましょう。
幸い聖人は九十才の長寿をとげられ、その晩年は、つつましい庵に身をおき、円熟した信仰の境地を数多く著述として残されました。その一字一句は永久に無窮の聖典として伝えられ、無明長夜の燈炬として人類の行く手を照らし続ける事でしょう。聖人のご誕生を共々にお祝いいたしましょう。
渇れはてにし 天地は いつくしみにうるおえり
甘露の雨 とこしえに そそがんとて 生まれましぬ
たたえまつれ 今日の日を 祝いまつれ 今日の日を
口ずさむ法語(三)
正 定(しょうじょう)
最近は「目標」を見失っている人が多いそうです。ノルマや期限に追われる日常にも、それなりの目標はありますが、逆にその目標に振り回されていないでしょうか。結果はストレスや体調不良に陥り、思いも寄らない出来事を引き起こしたり巻き込まれたりです。それではいのちの光り輝きなどなく、ましてや人生の目標など考える余地もありません。
生きる目標を見失うと、生きる意味を誤ります。私たちは尊い「いのち」を恵まれ、この世に生まれ出た時から、既に大きな目標を抱えていたはずです。ささやかないのち・限りあるいのちを支え合い、助け合って生きることこそ、本来の目標であり使命ではなかったでしょうか。
お釈迦さまが示してくださったブッダ(仏陀=仏)という立場は、いのちの尊厳に目覚め、支え合い輝き合うお互いでなければなりませんでした。何事にも自分を中心に自分の都合で考え、うまくいけば自分の手柄、へたをすれば他人のせい…、というお粗末では仏から遠ざかるばかりです。そんな私を見抜き、お釈迦さまは阿弥陀如来をご紹介になりました。大きな願いを込めて呼びかけてくださる仏さまです。
(かけがえのない願いを込めた、「わが名を呼べ」
という呼びかけは、まさに真実の目標を定めてく
ださる阿弥陀如来のはからいです…)
ナモアミダブツをいう如来の呼び声を縁に、正に目標を定められた仲間は「正定聚」、その仲間入りをすることが「入正定(之)聚」でした。
「仏になる」目標を定められることは「仏になる」という意味を考えることです。それは、限りあるいのちを互いにいとおしみながら、一度だけの人生を、ともに手をとって逞しく歩んで行くことです。それでこそ、身近な目標の意義も深まります。
やさしい真宗マナー教室
八、御法話を聞かせていただきましょう
法話とは仏様のことや仏様のお示しくださったみ教えをわかりやすく伝えて下さるお話をいいます。私達は、浄土真宗の門徒として朝夕に合掌礼拝してお正信偈を唱和させていただくことは、大切なつとめです。しかし、それだけで終わってしまっては十分とはいえません。浄土真宗は、御法話を聞かせていただくことが大切なのです。
宗祖親鸞聖人は、比叡山での二十年におよぶ自力の修行をやめられ、法然上人の御法話を聞かれて阿弥陀如来のおこころをいただかれました。そして、「雑行を捨てて本願に帰す」と、阿弥陀如来のご恩に報いる道、南無阿弥陀仏と称える道をあゆまれました。そして私達に、「御法話を聞き、阿弥陀如来のおこころを深くいただくことこそ最も肝要である」とご教示くださいました。
阿弥陀如来のおこころを聞かせていただかないお念仏も、お正信偈も本当の意味では浄土真宗門徒の正しい姿ではないのです。つとめて御法話を聞かせていただきましょう。
ここに岩田アサオさんが若い頃お父さんから聞かれたお言葉を紹介させていただきます。
「娘ざかりになると異性のことに夢中になったり、身を飾るものは多いが、お前のように信仰について熱心に考えるものは少ない。ようその気になってくれた。だがこの道を聞くことは決して容易なことではない。若い者はいやになって途中でやめたくなることもあろうが、どうかやめずに聞きつづけて聞き開いてくれ。人間はこれを聞くために生まれてきたのだからなぁ。これからはお前がよいお同行に会いたければ、どこまでも訪ねてゆけ。和上さんに会いたければ頼んでやる。お前がこの道を聞くために使うのなら、家の財産全部を投げ出してもお父さんは惜しいとは思わない。よう聞かせてもらえよ」身の引き締まる思いがいたします。
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