慈光 平成12年お彼岸号
も の さ し
正しいものにふれて
「はずかしい」
と思う気持ち----
真実なるものにふれて
「これでは いけない
という気持ち----
「マチガッテイタ」
と知らされる気持ち
人生には 必要なのです
『人生のほほえみ』
−中学生はがき通信− 波北 彰信著
お彼岸を迎えて
今年四月一日から新介護保険が実施されます。私は、最近ボランティアで、よく老人ホームを訪ねます。高齢化社会の到来と共に、一昔前とは比べれば、設備も立派になり、介護のあり方も冷暖房食事入浴等驚く程改善充実してまいりました。
しかし、何故か入所者の目に輝きがありません。それどころか食堂やエレベーター付近で老人同士のこぜり合いや反目が目立ち、余生いくばくもなく互いに身を寄せ合って過ごすべき同朋のみじめな姿に悲しみを覚えます。施設長さんから「音楽団やおどり、ゲームなどの慰問は度々来ていただきますが人間の生き甲斐、いのちの尊さ等について真剣に相談して下さるお方が無いので入所者は心が空虚になって、早く死にたい、と愚痴ばかりこぼします」と言われました。私についても、余り遠くない将来のこの境遇になる事を思えば、決して他人事とは考えられず時間をやりくりしてお話に出かけます。
老齢や死を悲観的に捉えれば、人生は暗くみじめな終末となりましょう。反対に「限りある生命を玩味して、今日の一日をお浄土への一里塚と考えれば、輝く日々に転化」するはずです。逆境に遇えば、尚一層、み仏のお慈悲の尊さが身にしみ、本当の意味で一人一人の信仰が試されている事が判ります。
親鸞聖人は歎異抄の中に「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり」と述懐され、頼まずとも、力まずとも、生命つきる所がみ仏のお浄土である事を説いて下さいました。年老いる事は寂しい事ですが、長い人生航路の翼を休め、悲喜こもごもの想い出を胸に、生まれ難くして人界に生を受け、聞き難くして尊い念仏の法門に会える幸せ者、と喜べる年代でもあります。
お彼岸を迎えて仏前に座し静かに合掌し報恩感謝のまことをあらわしたいと思います。
口ずさむ法語(二)
法蔵菩薩と世自在王仏
はるかな昔、「世自在王」という名の仏さまの説法を聞いて心から感動し、真実を求めて出家を思い立った一人の国王がありました。求道者としての法蔵の登場です。どこまでも道を問うひたすらな姿勢に、一度は「自身で求めよ!」と突き放した師の仏も、真剣なやり取りでことばを返します。
「大海の水も、黙々と精進を重ねれば、どんなに時間がかかっても、最後には必ず汲み干すことができるだろう…」と。果てしない時を経て、法蔵は菩薩の修行を終え、すべての人たちの苦悩の根本を取り除く、この上もなく(無上)素晴らしい(殊勝)願を打ち立てました。これにより、阿弥陀仏(無量寿=限り無いいのち、不可思議光=何もかも照らし出す光)となって、私たちを包み込んでくださることになります。その誓い・約束をまちがいなく届けるため、「我が名を呼ぶ声があらゆる方向、すべての世界に満ち満ちているように…」と、さらに願いを込めた呼びかけが「南無阿弥陀仏」と、ことばになりました。これが『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の物語で、『正信偈』の初めに部分に要約されています。
物語などというと、文学を連想してしまいますが、これは、単にお釈迦さまが阿弥陀仏を紹介するために語られた空想のストーリーではありません。
尊いいのちがあらゆる苦難を超え、ついには仏となって再会できるよう、何時でも何処でも、私たちの手をとって歩んでくださるのが阿弥陀さまです。私たちを導くためには、因果を超えた悟りの世界から、因果に喘ぐ世界に降りて来ることが必要でした。
ナモアミダブツ…と、口に働きかけられる「お念仏」と、その「いわれ(=由来)」を説くには
、因の位で修行を始めた法蔵菩薩が、数字では読めないほど永い(五劫)苦労の後、果として阿弥陀仏に成る、という物語形式での表現が相応しかったのです。
やさしい真宗マナー教室
六、正しいお焼香の作法
法要・儀式の中で尊前に進み出で、火中に香を入れ、供えることを焼香といい、本誌上でも何度か取り上げられ、よくご承知のことでしょうが、再びおさらいしましょう。
焼香が行われるのは、お寺の法要に参拝したとき、家庭で年回法要を営んだとき、葬儀に参列したときなど、法要・儀式にはかかすことができません。しかし、宗派によって焼香のスタイルも少し異なっています。真宗の焼香の作法は、手間のかからないあっさりとしたものです。
会館等で執り行われる葬儀に参列することも最近多くなりましたが、立ったまま焼香することになります。その作法を簡単に説明しますと、焼香卓の前に進み、二〜三歩手前の所で一礼し、さらに前へ進んで、左手には念珠を保持したまま右手で香を一つまみとり、香炉の中へくべ、本尊を仰ぎ見ながらおもむろに合掌礼拝します。二〜三歩下がって一礼し、自席に戻ります。このとき、香を投じるのは一回だけであり、香を持ったまま目の前に高く押しいただいたり、二度も三度も香を火中にくべることはしません。ごく自然に香を右から左に移動させるだけでよいのです。(導師の前を通って焼香に出るときは、導師に向かって軽くお礼をするのがマナーです。)
家庭の法事などでは、尊前に進み出て焼香をすることなく、香炉と香盒を乗せた焼香盆を回し、座ったまま焼香をしますが、原則は同じです。
ただし、お寺の法要等で導師が登礼盤(法要の初めに礼盤という台座に上がる作法)を行う場合だけ特別に焼香を二回することになっていますので留意下さい。
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