慈光 平成12年お盆号
関 係
「カンケイ ナイヨ」
と 言うけれど
自分が 生きていることに
思いもおよばぬほどの
人々がかかわっていて下さる
自分のしていることが
思いもおよばぬほどの
人々に かかわっているのです
『人生のほほえみ』
−中学生はがき通信− 波北 彰信著
お盆に遇う
亀山 本徳寺で真宗興隆会の公開講座が催された折り、講師の信楽先生が、七百余人の熱心ではあるが今一つ盛り上がりの乏しい聴衆に対して「播州の御同行衆 皆さん 何かお忘れではありませんか」と問い正された。私の幼い頃の想い出であるが、御講師が一節々々尊い法語を述べられる度に、お堂の中に念仏の声が充満し、講師と聴衆が一体となって法悦にひたる光景がしばし見うけられた。今やこの雰囲気は、新興宗教にはあっても浄土真宗の教団からは忘れられつつあるのではなかろうか。私達の宗門にとって、念仏こそ肝要でありもう一度生活に密着した念仏を声高らかに称え 味い 人生の苦楽の中に相続してゆきたいものである。
合掌して念仏申す姿ほど 尊く力強い生き方はない。かき分けても つみ取っても 前方に立ちはだかる今日の世相の中で、法律をいくら改正して人間を外から律しようとしてもそれは根本的な解決策とはなり得ない。少年の残虐な犯罪も、公務員のあとをたたない不祥事も、環境破壊についても、その根底は全て人間の心の病である。現代人は他人より多く欲望を満たし 人より優位に立つことが幸せであるかの如く錯覚している。それは果てしない競争集団であって、この道の果てには野獣の屍が残るのみである。今こそ仏智を灯として 念仏ルネッサンスを唱導すべき時が来ていると思う。
御婦人方は外出される前に鏡台に向かって化粧をし衣装を整えられる。同じ気持ちで心を養いたいものである。朝夕に仏前に座し 例え僅かな一時でも香をたきしめ合掌する気構えがあるなら、その日から私の生活は大きく変わるに違いない。お念仏にはそれだけ尊い み仏の大願がこもっているのである。お盆こそ 遠き宿世の縁に遇える又とない歓喜の日となりましょう。
それ南無阿弥陀仏ともうす 文字は
そのかず わずかに 六字なれば
さのみ功能のあるべきともおぼえざるに
その六字の名号のうちには
無情甚深の功徳利益の広大なること
さらにそのきわまりなきものなり
(五帖目の十三通)
口ずさむ法語(四)
如 来 興 世(にょらいこうせ)
経典(=お経)はお釈迦さまの説法の記録として、お弟子たちが努力の末にまとめ上げたものです。インドから東南アジアの諸国へ、また中国、さらには朝鮮半島を経てわが国に伝来しました。その間、漢訳をはじめ、各々の国の言葉に翻訳されながら大切に引き継がれています。お釈迦さまは既に遠い昔になろうとも、経典を読誦することはその説法の場に身を置くことであり、お釈迦さまの声を聞くことでもあったのです。
経典をいただくと、「浄土三部経」の阿弥陀如来以外にもたくさんの仏(=如来)や、仏に成る前に最後の段階で修行している多くの菩薩に出会います。薬師如来・大日如来をはじめ、文殊菩薩・普賢菩薩・弥勒菩薩・観世音(観音)菩薩などなど、お馴染みの名前を見ることができます。言い換えれば、お釈迦さまは説法の中で、多くの仏や菩薩を明らかにしながら紹介してくださったのです。
お釈迦さまが私たちと同じ人間の身で「仏」となり、次には、他のみんなが「仏」になるために、後の四十五年間を説法に終始されたのはご存知のとおりです。各々の説法の場にふさわしく、各々に所を得た存在として偉大な力を持って活躍し、迷えるものを導くのが仏であり菩薩でした、しかし、どんなに多くの諸仏や菩薩方があろうとも、「生きとし生けるものすべてが仏になることを誓い、その願いをことば(ナモアミダブツ)に込めて呼びかけるのは阿弥陀如来だけです…」と、お釈迦さま自ら苦労を吐露し、教説されたことを忘れてはなりません。
個々の性格や資質や力の差を考えたとき、すべてのいのちが仏と成って輝くには、完全に仏の側からの「はたらき」に依るしかなかったのです。
如来所以興出世(お釈迦さまがこの世にお出になられたのは)
唯説弥陀本願海(何よりも阿弥陀如来を明らかにするためです)
やさしい真宗マナー教室
九、おつとめ(勤 行)について
真宗の熱心なご門徒は朝夕のおつとめ(勤行)を怠ることがありません。前回までは基本的な作法について説明しましたが、仏前に座したとき、実際のおつとめをどのようにするのでしょうか。
- 輪灯に点灯し、ろうそくに火をつけ、
- 線香は香炉の大きさにあわせて二〜三本に折り火をつけて入れ(必ず寝かせます。)
- 念誦を持って合掌礼拝をして、
- 経本をとり、軽くおしいただいてからおつめに入ります。(リンは定められた箇所で打ちます。)
- おつとめが終わると再び経本をおしいただいて閉じ、経机に置きます。(机がないときは、畳に直接置かずに膝の上に置くようにしましょう。
- 最後に合掌礼拝。灯明を消してお礼をします。
大体このような順序になりますが、読経の前後に経本をいただくことを忘れないでください。
真宗のおつとめは、お経を読んでその功徳を亡くなった人や先祖に回向するというような心持ちではありません。おつとめはあくまで仏徳讃嘆と仏恩報謝のための行いです。仏さまの徳を讃え、その限りないご恩に感謝するためのものです。お経やお聖教に親しんで仏縁を深めること、実はそのことを亡くなった人や仏さまが願われているのです。
古来よりおつとめは「正信偈六首引」と定められていますが、多忙な昨今、より簡単な讃仏偈や重誓偈でもかまいません。お盆の間にたとえ一日でも家族揃っておつとめをしましょう。
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