三身山太山寺

 開山は藤原鎌足の長男で不比等(ふひと)の兄でもある定恵(じょうえ)。
 若くして出家し、遣唐使で唐にわたった経験もある。
 665年に帰国するも4ヶ月後には亡くなってしまったとされるが、なぞが多く714年とする説もある。

 開基は平城京に遷都後間もない奈良時代716年、不比等の三男である藤原宇合(うまかい)が堂塔伽藍を建立したとされる。

 創建時の建築物は鎌倉時代1285年の火災で焼失、その後本堂は1293〜99年に再建された。

 1334年からの南北朝時代には南朝方として子院41ヶ坊、多数の僧兵を有し大いに繁栄したが、現在は国の名勝庭園がある安養院など5ヶ坊となっている。

宗派   天台宗

所在   神戸市西区伊川谷町前開224


拝観料 大人 300円 

拝観時間 開 午前8時30分時〜午後4時 冬季(12〜2)は4時30分
 


安養院
拝観料  300円  500円で和菓子、抹茶の接待あり
公開日  1月1〜3日 4月26日〜5月5日 11月1日〜11月30日

彫刻

重文 木造阿弥陀如来坐像

絵画

重文 絹本著色両界曼荼羅図(大)
重文 絹本著色両界曼荼羅図(小)
重文 絹本著色愛染曼荼羅図
重文 絹本著色法華曼荼羅図
重文 絹本著色釈迦三尊像
重文 絹本著色十一面観音像
重文 絹本著色不動四童子像
重文 絹本著色不動二童子像
重文 絹本著色十六羅漢像
重文 絹本著色金剛経十六善神像
重文 絹本著色白衣観音像
重文 刺繍種子両界曼荼羅図

建築物

国宝 本堂
重文 仁王門


その他

重文 武具類
重文 法華経32巻
重文 曽我物語(仮名本)10冊
重文 大塔宮令旨及注進状

太山寺の主な文化財


重文の太山寺仁王門
 姫路から車で東へ1時間ほど、播州からだと神戸へ出かけると言うと都会へおしゃれでもしていく感覚だが、ここ太山寺周辺は閑寂な山の中で、神戸の地方育ちの私としてはちょっと懐かしい感じのする所だ。

 神戸と言えども須磨より以西、六甲山脈以北は播州地方で、近代になるまで播磨文化の中心は播州平野、昔はここも西の外れだったのだろうか。

 仁王門の左に走る小道を車で入っていくと子院の配置された参道に入り、しばらくたって左の駐車場に車を止めた。
仁王門を拝見するためもと来た道を戻っていく。
 のどかな風景と石畳の参道は初秋の風と共に私に心地よい感情を与えてくれる。
 前方に仁王門が姿を現し、門の右側には昭和23年に解体修理した際に発見された組み物が復元されている。
 この門の創建は不明だが建築様式から推測して室町後期のものと考えられているようだ。

創建当初は別の場所にあったものを現在の場所に移築したことも分かっている。

 またまた元来た道を引き返し左右の塔頭(たっちゅう)を眺めながら駐車場あたりを過ぎると、道なりに左に向かうと前方には中門に続く階段が現れてくる。
 中門を抜けると左に受付があり、正面には国宝の本堂がどっしりと威容のある姿で建っている。
 手洗舎まで進むと左には阿弥陀堂、右には三重塔、決して広いとは言えないが伽藍が周囲の山々に溶け込んで美しい姿をみせてくれる。

 尚、太山寺には4つの塔頭(小寺院)安養院、歓喜院、成就院、龍象院があるが限定公開の塔頭もありもう一度訪れてこんどは是非拝見してみたい。

朱塗りが美しい中門

阿弥陀堂(常行堂)
堂内安置の阿弥陀如来坐像は重文
 手洗舎から左に視線を移すとそこには阿弥陀堂がある。
 徳川綱吉が生類憐みの令を発布した3年後、江戸前期1688年に再建されたとされる。
 この堂は、本来は天台宗の常行三昧の修行堂であったが阿弥陀信仰の高まりと共に、阿弥陀堂として人々の信仰をあつめた。

 本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期とされ、その御姿は丈六の坐像。
 丈六とはお釈迦様の身長が一丈六尺(4m80cm)あったとされ、その寸法どおりに作った仏像を「丈六の像」と言うらしい。
 坐像の場合は高さは約半分になる。

 堂から阿弥陀坐像の前にたたずむと、清純で張り詰めたような空気の流れに包まれる感覚になる。
 堂内には入れなかったが、機会があれば堂内からもっと身近に如来像を感じることができれば・・・。
 阿弥陀堂よりもと来た道に目を向けると三重塔が目に飛び込んでくる。
 背後の緑を借景にして自然と一体になった姿が美しい。
 兵庫県の文化財に指定され阿弥陀堂と同じく江戸前期の1688年の建立。
 各層四隅の尾垂木の間には邪鬼が配置され各層邪鬼の色が異なっている。
 初層内部の須弥壇には等身大の大日如来坐像が安置されている。
二層目の邪鬼

阿弥陀堂より三重塔を望む

鐘楼
 阿弥陀堂より右側の堂内廊下を進むと鐘楼に突き当たる。
 小さな鐘楼で建立はいつ頃なのであろうか。
 参拝者もまばらだったので一回撞かせてもらった。
 伽藍に響く梵鐘の音はなんとも言えず、心に残る印象を、視覚とはまた違った感覚で味わうことができた。

 鐘楼の向こうはちょうど本堂の左側面になる。
 本堂は正面から見る壮大さも良いが斜に構えてみるのも趣があってけっこう良い。

 国宝の本堂、創建は不明だが鎌倉後期の1285年の火災で喪失、その後1293〜99年にかけて再建。
 1334年の建武の新政では太山寺宗徒は後醍醐天皇の弟である護良親王の令旨(皇太子の命令文)を受けて大いに活躍したとある。
 実際は後醍醐天皇の綸旨(天皇の命令文)を差し置いて護良親王が令旨を発したことにより二人は不仲になっていく。
 護良親王は10歳より延暦寺に入り、1328〜1330年の間に2回天台座主になっているが1331年に還俗。

その後太山寺は南北朝時代には仏教の大衆化も伴って子院41坊、南朝方として大いに繁栄する。

本尊は薬師如来と十一面観音。

国宝の本堂

羅漢堂(その奥には釈迦堂)
 続いて本堂の反対側奥には羅漢堂と釈迦堂がある。
写真では分かりにくいがこの羅漢堂の裏側に続きで釈迦堂が建っている。

 建立は江戸後期、羅漢堂には四天王像と十六羅漢尊像が、釈迦堂には釈迦三尊像(釈迦、文殊、普賢)がそれぞれ安置されている。
 5月8日の花祭り(お釈迦さまの誕生日)はこの釈迦堂にて営まれている。
 羅漢堂入り口のひさしは子供の頃にあった公衆銭湯を思い出させる。
 羅漢堂から出てきて本堂を逆方向に歩いていくと観音堂が見えてくる。
 観音堂言われているからには中には観音菩薩が安置されているのだろうか。
 正面には鳥居が立っているが建物から見ても神社様にも見える。
 説明文も無く、ホームページにも記述がないので詳しいことは分からない。

 どなたかご存知ならば教えてください。

観音堂

奥の院の地蔵堂
 最後に観音堂の階段を下って三重塔を右に進めば奥の院がある。
 朱に塗られた閼伽井橋を渡って稲荷舎、その奥には地蔵堂。
 昔は眼病に効くと言われる水が湧き出ていたらしいが今はない。
 この東岸上流には等身大の鎌倉時代作といわれる磨崖仏が刻まれているらしいが現在は通行禁止である。

 地蔵堂のお地蔵様は一願地蔵といって一つの願いに限ってお陰を頂くことができるという言い伝えがあるらしい。

三身山太山寺巡礼