刀田山鶴林寺

 古墳時代も終焉を迎え飛鳥の新しい息吹が芽生え始めた頃 高句麗の僧、恵便法師が、物部氏ら廃物派の迫害から身を隠すためこの地に滞在していたとき、崇仏派の聖徳太子が法師の教えを乞うため、この地に足を運んだ。

 その後、命により精舎を建立し刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが鶴林寺の始まりとされている。

 恵便法師が滞在していたのは年代的にははっきりとしていないが、太子らが物部守屋を滅ぼしたのが587年なのでそれ以前になるのだろう。

 四天王寺聖霊院が建立されたのが589年、そして百数十年後の平城京遷都8年目の718年には太子を遺徳を偲び七堂伽藍を建立。

 しかし平安前期の868年、播磨大地震で倒壊されたと推測され、それ以前は鶴林寺が現地点にあったかどうかは不明である。

 平氏の勃興しはじめた平安中期の1112年には現存する太子堂が建立され寺名を鶴林寺に改めたと伝えられている。


 現在、鶴林寺は聖徳太子由来のお寺で「刀田の太子さん」「播磨の法隆寺」などと呼ばれ親しまれている。


宗派   天台宗

所在   加古川市加古川町北在家424


拝観料 大人 500円 小中学生 200円 (宝物館拝観込み)

拝観時間 開 午前9時〜午後4時30分 閉 午後5時(年中無休)
 


国宝の本堂
ご本尊は秘仏の薬師如来
室町初期で1397年の建立
折衷様式の優れた建築
 自宅の姫路から鶴林寺を目指して車を走らせた。
 加古川の中心街から程近い、少し南へ下った住宅街のなかにあって、雰囲気的には生活感のある世界に溶け込んだ立地のお寺。
 国宝ということを知らされなければ街中の大きなお寺と言った所か。
 大門のすぐ内にある受付が無ければ下校中の子供たちや、買い物帰りの奥方たちが自由に行き来してそうな感じで、庶民安らぎの場となっている。
 受付を済ませて中に入ると正面に国宝の本堂が見える。
 少し進んでいくと左に見える三重塔を過ぎて本堂の正面に。
 ほの暗い本堂内は中央で内陣と外陣に分かれており、重文の秘仏、薬師如来三尊が安置されている内陣の宮殿内は60年に一度の開帳で、扉は硬く閉ざされていた。
  国宝見学のつもりで始めた古寺めぐり第1号がこの寺なのだが、早くも古寺の持つ神聖な雰囲気に圧倒された。
 すがすがしい雰囲気を感じつつ本堂を後に。

 次に向かったのは西の端にある新薬師堂。
 常行堂と三重塔の間を抜けて新薬師堂へ。
 なぜかこの建物には建造物の説明板も無くプラスチックのベンチが置いてあったりで少し赴きを異にしている。

 しかし中に入ったとたん堂内を覆いつくすほど存在感のある薬師如来像に目をうばわれた。
 思わず直立不動の姿勢をとってしまうほどの緊張感。
 終夏の時期にもかかわらず涼しげな堂内に、国宝の美術品を見学に来たのが間違いであるかのような気になった。

、このサイトでも文化財として数々の彫刻を紹介しているが、「仏像は彫刻ではない、仏像は仏である」というある小説家の言葉を心の底から感じた。

なぜか文化財指定のない新薬師堂

鶴林寺のホームページによると、新薬師堂については、江戸時代中期に建立されたとされ、本堂の薬師如来が秘仏であるため参拝者やってきても本堂の如来を目にすることができず、参拝者がいつでも拝めるように作ったとか。
学者たちの間では薬師如来像の制作はもっと古いとの異論も。

修行の堂でもある重文の常行堂
 なぜか新薬師堂の如来像にしかられたような気分のまま、堂を出て左前にある常行堂へ。
 国宝、太子堂とほぼ同時代の建立であったものを戦国時代前期になる1566年瓦屋根に葺き替えたらしい。

 鶴林寺ホームページによると昭和14年の解体修理の際床下から30個もの頭蓋骨が発見されたそうである。
 現在では戦国時代に鶴林寺に攻め込んだ秀吉軍の犠牲者を弔ったという意見で落着いているそうであるが、今もその頭蓋骨は埋め戻されて弔われているそうである。
このお堂は「常行三昧」といって阿弥陀仏を唱え心に思いながら何十日も歩き回る激しい修行が行われたところでもある。

 常行堂から左に本堂を眺めつつ東側へ向かって歩いていくと太子堂(1112年建立)にたどり着く。
 宝珠や桧皮葺の屋根が太古を感じさせてくれる。

 常行堂と対を成す天台宗最古の法華堂で太子創建の聖霊院(しょうりょういん)の後身といわれている。
 昭和51年に赤外線写真によって創建当時の壁画が発見された。

 灯明のススが太古の壁画を現代によみがえらせてくれた。
 外観しか見学できなかったが機会があれば是非内部も参拝してみたい。

 ここから左手側を本堂の東側に進んでいくと鐘楼、観音堂が見えてくる。


内部には壁画も発見された国宝の太子堂

堂内の内陣は硬く閉ざされている観音堂
 続いては観音堂。
 江戸時代1705年姫路城主榊原政邦公の寄進により再興。

 このお堂にはもともと通称「あいたた観音」と呼ばれる白鳳時代の聖観音像が安置されていたが、明治の神仏分離政策以降は浜の宮神社の本地仏聖観音(秘仏)を安置している。

 
 尚あいたた観音についてであるが日本の仏像として世界中に紹介されるほどの白鳳仏の傑作で、その昔盗人が持ち出し溶かして一儲けをたくらんだが、観音様の「あいたた」との声に驚き盗人は像を返し改心したと言う逸話が残っている。

 現在は宝物館に安置されているが見世物的で少し寂しい。
 やはり観音像はお堂で安置されている姿で拝したい。

 観音堂をぐるりと回って裏側に行くと、その前方にひっそりとした小さいお堂がある。
 本尊に不動明王を安置する護摩堂である。

 本堂より遅れること166年、室町時代の灯火も幾許もなく戦国の勢力が台頭しはじめた1563年の建立。

外部は和様、内部は禅宗様の折衷様式建築。

 英文の説明にはファイヤーホールと表示されているように、内部の護摩壇に火をたき本尊と自分が一体になるよう祈祷を行うお堂という説明板があった。

 すぐ前には小さな弁天池があり往時の護摩壇の祈りの炎もこの水面に映し出されたことであろう。

重文の護摩堂、右下には弁天池がある

重文の鐘楼と青銅梵鐘
 護摩堂から観音堂をはさんで対角に鐘楼がある。
 本堂ができてのち10年、室町前期の1407年の建立。

 青銅製の梵鐘も重文で、鐘を突くには2階に上がらなくてはいけない、かなり大型の鐘楼である。
 建築様式は建物が袴をはいているように見えることから「袴腰造り」と呼ばれている。
 構造自体も本堂宮殿の建築技法と似たものであるらしく、本堂建築との関連は深そう。

 梵鐘は約1000年前に作られた朝鮮鐘で太古の音色を現代に引き継いでいる。

 次回訪れるときはは是非諸行無常の調べを感じてみたい。
 塔は伽藍の華である。
 と感じさせるほど寺院の塔は美しい。
 そう感じるのは古寺見学初心者の私だけだろうか。
 伽藍内何処にいても目にとまり高さのあるその姿はまるで建造物の映画俳優のようだ。
 地味で赴きのある数々の建物の中で一際目だって見える。

 そんな三重塔だが起源はインドで仏舎利(釈迦に遺骨)を納めたストゥーパ(卒塔婆)で、インドではストゥーパを中心に仏教の信仰が高まった。
 日本でも初期は塔を伽藍の中心に据えている。
墓地に立てられた塔婆もこれを簡略化したものらしい。

 この三重塔建立年ははっきりしないが建築様式から見て室町時代と推測されている。
 江戸文政年間の大修理(1818〜1830年)で初重の大部分は新材で補修された。
 初重の須弥壇には本尊大日如来坐像が安置されている。
 相輪は昭和52年に改鋳されたが見事な相輪である。
 
重文ではないが兵庫県指定文化財の三重塔


重文の行者堂
 三重塔を過ぎて南西の角にひっそりとした小さな祠がある。
 重文の行者堂である。

 何故お寺に祠が?と思ったが、説明によると日本に古くからある神仏同体思想から鶴林寺を守護するため日吉神社を建てたのが前身とされている。

 当初は鶴林寺鎮守の山王権現を祀っていたが、明治以後絶大な超能力を持った山岳修行のリーダー役行者をまつり行者堂となった。

 屋根の形が正面が春日造り背面が入母屋造りという珍しい構造。

鶴林寺の主な文化財

建築物

国宝 太子堂
国宝 本堂
重文 常行堂
重文 鐘楼
重文 行者堂
重文 護摩堂


工芸

重文 青銅梵鐘
重文 木造鶴林寺扁額
重文 だ太鼓縁
重文 木造きゅう漆厨子

彫刻

重文 金銅聖観音像     
重文 木造薬師三尊と脇士
重文 木造十一面観音像  
重文 木造釈迦三尊像  
重文 木造仏天蓋

絵画

重文 太子堂壁画
重文 弥陀三尊画像
重文 慈恵太子画像
重文 聖徳太子画像
重文 聖徳太子絵伝

刀田山鶴林寺巡礼