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孝橋明子の古代研究
(記紀 万葉 風土記 韓国漢字の研究)

                   2019/07/04

2018/07/01

ソドンヨ 古代朝鮮郷歌の表記法 

古代朝鮮の郷歌(ヒャンガ)は、漢字の音訓を使って自国語の歌を表記したものであり、日本の万葉歌と表記方法がよく似ています。

〈薯童謡〉と名付けられた郷歌は、高句麗、百済、新羅の神話や説話の歴史書、「三国遺事」の、百済三十代武王の項に出ています。 この武王(在位西暦600〜641年)の物語は、韓流歴史ドラマ、「薯童謡(ソドンヨ)」として、日韓両国で人気を博しています。 

「三国遺事」から脚色されたドラマ「薯童謡」の物語では、百済三十代武王は幼い時、龍の子といわれ、母と二人で貧しく、自然薯を売って暮らしていたので、薯童(ソドン)と呼ばれていました。 ソドンは新羅の美しい王女、善花公主をみそめ、そのお姫様と情交があるかのような童謡を作り、それを子供たちに歌わせたので、善花公主は宮廷から追い出されてしまいます。それから、いろいろの事があって、ソドンと善花公主は結婚し、ソドンは百済三十代の王様になります。

善花公主と薯童の間に情交があるとドラマの中で謡われる童謡とは、漢字の音訓を使って書かれた、次のような郷歌〈薯童謡〉です。 漢字の歌詞も画面に映ります。

 

善花 公主 主(隠)他 密(只)嫁(良)置()

薯童 房() 夜() 卯() 抱() 去()

(郷歌では、名詞や動詞、副詞語幹は訓読し、助詞や活用語尾は音読するので、音読部分に(  )を入れてみました。)

この郷歌を金東昭著「韓国語の変遷」を参考にして、日本語に訳してみました。

善花公主様は 人知れず嫁入りされて 

薯童の部屋に 夜に『卯』を抱いて通う

 

『卯』の解釈は、金東昭著の本では、〈卵〉の誤りであると書いてあります。 しかし私は、漢和辞典を引くと一番目に出ている「十二支の第四位、動物では兎に当てる」が最適と思い、『卯』=『兎』という説を採ります。 ドラマでも『卯』=『兎』とされています。

また、『卯』を抱いて通うというのは、「共寝」をしに行くということを意味していると思われます。

 

百済武王の時代は、日本では推古天皇、舒明天皇の時代ですが、どちらの国にも固有の言葉を書き表すハングルカタカナ、ひらがなは 当時まだ存在せず、漢字を工夫して使って自国の歌を書き表すことが共通していることはとても興味深いことです。

 

 

―『播磨国風土記』揖保郡荻原里条の新しい読み方―

 

一 揖保郡条荻原里条を読む

『播磨国風土記』揖保郡条の中に「米を舂く乙女の美しい髪飾り」のことが書いてあ

ります。そんな記事があるの?と、風土記に詳しい方なら、誰もが疑問に思われるでし

ょう。

でも書いてあります。

それは、播磨(針間)井という井戸のあった揖保郡荻原里のところです。まず、原文

には「荻原」とあるのに、「萩原」と誤読されている「荻原里」の起源説話から、印影

本(八木書店版)の原文を基に、文節ごとに原文、口語訳、解説と記していきます。

揖保川

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 一夜にして(をぎ)が生える

原文:「荻原里 土中ゝ 右所以名荻原者息長帯日売命韓国還上之時御船宿於此村一夜

之間生荻根高一丈許仍名荻原」

口語訳荻原(をぎはら)里。土は中の中。荻原(をぎはら)という名は、(おき)(なが)(たらし)日売(ひめ)(みこと)が韓国から還ってきた

時、御船がこの村に停泊し、一夜の間に荻が生えました。高さは一丈ばかりです。それ

荻原(をぎはら)と名づけられました。

解説「荻」はイネ科の多年草で水辺や湿地に生えます。荻と萩はまったく違う植物で

す。荻、葦也と『新撰字鏡』にあり、「草の名も所によりて変わるなり 難波の(あし)は伊

勢の(はま)(をぎ)」という歌もあります。日本は豊葦原瑞穂國と呼ばれ、一夜の間に葦、つまり

荻が生えるのは奇瑞とされます。

 

2 井戸を掘る

原文:「即闢御井故云針間井其処不墾」「又蹲水溢成井故号韓清其水朝汲不出朝尒」

口語訳:そして、御井を(はり)ました。それで針間井といいます。その場所は開墾しません

でした。また、穴を掘ると地下水が集まり、溢れて井戸になりました。それで、井げた

井戸(韓清)と名付けました。その水は朝に汲みます。出なくても朝にだけ汲みます。

解説:闢井は井戸を掘る、です。闢(はり)御井(みゐ)⇒針(はり)間井(まゐ)で

しょう。「み」≒「ま」の例として、万葉集九四四番と一〇三三番歌の「真熊野」は「み

くまの」と読んだり、「まくまの」と読んだりします。「針間」は「播磨(はりま)」と

して、国名「播磨」の旧表記ともされています。

また、『類聚名義抄』には、「蹲はアツマル、モタヰ」。『大漢和辞典』では「集まる=

蹲=墫=撙」とあります。「韓=ゐげた、井の垣。清=井=せい」と『大漢和辞典』に

あり、「韓清」は「井桁のある井戸」と読めます。「尒は助詞で、のみ(耳)、文末に置

いて、...だけである」と『漢辞海』にあります。「不出朝尒=出なくても、朝だけ(昼

や夕には汲まない)」。朝、井戸から汲んだばかりの水は井華や井花といわれ、体によい

ということです。

 

3 酒殿と傾殿

原文:「造酒殿故酒田船傾乾故云傾田」

口語訳:酒を醸造する殿だから酒田(しゅでん)(しゅ)殿(でん))。祭祀で酒器を傾けて酒を飲み乾し祝う場

所だから(けい)(でん)といいます。

解説:酒田の田は耕地の意味ではなく、田=でん=殿、酒を造る為の酒殿です。船は祭

祀で用いる酒器。傾は、(酒器を傾け)酒を飲む(傾杯、傾壷、傾盃、傾觴)こと。乾

は、(酒器の酒を飲み)乾して祝う、つまり乾杯。傾田(傾殿)は豊楽殿のような、酒

宴をして祝う所≒傾宮。玉で飾った宮殿、傾=瓊、一説に、一頃の田程ある廣い室、と

『大漢和辞典』は記しています。

 

4 米を()く乙女たちの美しい髪飾り

原文:「舂米女等陰陪従婚料故云陰絶田」

口語訳:米を()く乙女たちの髪飾りは、韓国から還上した息長帯日売命の陪従が、婚料

としてくれた世にも美しい絶品の(かげ)だった。そこで、その乙女たちが米を()き、精白す

る臼殿を、最も優れている(でん)冠絶(かんぜつ)殿(でん))といいます。

解説:舂米女(よねつきめ)は、酒造用の米を舂いて精白する乙女≒造酒童女(さかつ

こ)です。陰は、「かげ」=「蔭、冠、縵」=「髪飾り、頭上に戴くもの」です。陪従

は貴人につき従う、ともびと、家来。婚料は結納、婚姻の儀に贈る禮物です。さらに、

「陰絶は冠絶=最も優れていること、はるかに上回って、比べるものがないさま」と『漢

辞海』にあります。

息長帯日売命の陪従が、韓国から持ち帰ってきた髪飾り(陰)は、とても美しい光り

輝く玉縵だったと想像されます。玉縵を婚約の禮物として贈られた乙女は、その玉縵を

頭に巻いて、米を舂いていたに違いありません。

この記述の「(かげ)」を、「(かげ)」「(かげ)」「(かげ)」と同じ意味の語として扱っている解説書は、

私の知る限りありません。すべての解説で、「陰」は「ほと」と読んでいます。風土記

の他の記事では、「陰、蔭」は「かげ」と読むのに、荻原里条だけがどうして「ほと」

と読むのか不思議です。おそらく、婚料を婚断と誤読したために、そこから間違った連

想をしてしまったと思われます。

5 (をぎ)(さか)える(をぎ)

原文:「仍荻多栄故云荻原也」

口語訳:次々と、荻が多く栄え(生え)ました。それで荻原といいます。

解説:「仍」は副詞です。意味として、一番目に「頻繁に、かさねて、しきりに」。二番

目に「依然として」。まさに、豊葦原瑞穂国のようです。

 

6 酒の神様 少足命 

原文:「尒祭神少足命坐」

口語訳:ここに祭られている神は(すくな)(たらし)(みこと)です。

解説:尒は指示代名詞です。「かれ、これ、この、ここ、それ、その、そこ」と『大漢

語林』にあります。「(すくな)(たらし)(みこと)」は『記紀』において、(くし)(かみ)と呼ばれる(すくな)御神(みかみ)とは

同神と思われます。なぜなら、荻原里では、造酒用水の井戸、酒殿、酒宴の為の傾殿、

造酒用米を舂く乙女など、酒に関する話ばかり記されます。

『記紀』の「仲哀記」と「神功皇后摂政紀」に息長帯日売命が御子のために待酒を醸

造し、詠んだ歌があります。『播磨国風土記』の息長帯日売命も、ここ荻原里で酒宴を

開いて、こんな歌を詠まれたのでしょうか。

 

二、原文を正しく読み直す

1 荻原里はなぜ誤読されているのか?

二〇一四年三月、「はりま風土記の里を歩く会」が開催したシンポジウム「よみがえ

る播磨国風土記」に行きました。パネルディスカッションのコーディネーターをされた

岸本道昭先生が「荻原里」について、こんな発言をなさいました。

「里の一つに「荻原(おぎはら)」という里があります。ところが、ほとんどの風土記本は「萩原(はぎわら)

里」と書いている。比定されている場所に「萩原」と書いて「はいばら」と読む大字が

ございます。井上通泰先生以来ずっと言われているのですが、つまり井上先生が最初に

おっしゃったことがそのまま無批判に継承されてしまった、と思います」。このことは

『いひほ研究』第三号にも「萩になった荻」として書かれています。

帰宅後、私の本棚にあった『播磨国風土記』(山川出版社、二〇〇五年)を見ると、

正しく「荻原」と書いて、「荻原(をぎはら)」と読んでいます。もちろん八木書店の印影本、原文

は荻でした。岩波書店版の『風土記』は、「萩原」と書いて「萩原(はぎはら)」と読み、注におい

て、「底本では、この條の「萩」をすべて「荻」に作る。誤字」とあります。原文には

「荻」と書いてあるのに、何故それを誤りとするのか?と疑問に思い、同時代に書かれ

た万葉集の「はぎ」の歌を調べてみました。

 

2 「萩」の字は万葉集に登場しない

万葉集で「はぎ」を詠んだ歌は一四一首あります。しかし「萩」の字を使った歌はあ

りません。「はぎ」は「芽子、芽、波疑、波義」などと表記しています。『万葉集』(岩

波書店版)の解説には、「萩」の字は万葉集には未だ登場しない」と書いてあります。

漢和辞書によると、「萩」は「よもぎ」を意味したが、後になって草冠に秋の字の「萩」

をあて、秋を代表する花(はぎ)の和製漢字として使うようになったと書いてあります。 

『播磨国風土記』の書かれた時代には「萩」の字は「はぎ」と読まれていなかったの

です。そもそも原文には「荻」とはっきり書いてあるのだから、「荻原」にするべきだ

と私は考えます。 

 

3 なぜ「荻原(をぎはら)」に改正しないのでしょう?

残念なことに、最新の『風土記』(角川ソフィア文庫二〇一五年)でも「萩原(はぎはら)」です。

平凡社版は「萩原(はぎはら)」。小学館版は「萩原(はりはら)」。私の本棚の風土記本では、山川出版社版だけ

が正しい表記です。訳注をされる先生方は、やはり井上通泰先生の呪縛からは逃れられ

ないのでしょうか?素人の私には全く理解できないことです。 

4 「(かげ)」、「(かげ)」、「(かげ)」を何故「かげ」と読むのか?

『播磨国風土記』の記載で、託賀郡法太里の「冠」、神前郡蔭山里の「蔭」、飾磨郡安

相里陰山前の「陰」があります。これらは、多くの解説書で「かげ」と読まれています。

これらの記事を読み解いてみます。

 

@   託賀郡法太里の「冠」を「かげ」と読む理由

託賀(たか)(こほり)(はふ)()里「(みか)(さか)」の地名由来は要約すると次のように書いてあります。

「建石命は(さかい)にするために「御冠(みかげ)」を此の(さか)に置いた。それで「(みか)(さか)」。一説には、昔、

丹波と播磨の国の(さかい)に「(おほ)(みか)」をここに掘り埋めた、それで「(みか)(さか)」」

「冠」は、諸本で一般的に「かげ」と読まれます。ここでは、「御冠(みかげ)」「()(かがふり)」の始

めの二字「みか」⇒「(みか)」が「みか坂」の由来とされています。冠には呪力があって境

界を守るとされるほか、大きい甕に神酒を容れて境界で儀礼を行ったりしたことが、甕

坂の地名由来になったようです。

A   神前郡蔭山里の「蔭」を「かげ」と読む理由

神前(かむさき)(かげ)(やま)里 (かげ)(やま)というのは、品太天皇の御蔭(みかげ)が此の山に落ちたので、(かげ)(やま)とい

い、また蔭岡といいます」。

『和名類聚抄(高山寺本)』神崎郡条では、「蔭山 加介也未」とあるので、「蔭山」

を「かげやま」と読むことに異論はないようです。

御蔭(みかげ)」は、『日本書紀』の持統元年に、「以花縵進于殯宮 此曰御蔭」とあり、天武

天皇の殯宮(もがりのみや)に進上した「花縵(はなかづら)」=「御蔭(みかげ)」とされています。その「花縵(はなかづら)」について、

万葉学者の上野誠先生は、「蔓性の植物で作った飾り物、今日の花輪の類と考えてよい」

(『万葉挽歌のこころ』)と書いておられます。

「御蔭」の「御」は美称、「蔭」は生命力が強く、邪気を払うとされる蔓草(『和名類

聚抄』『日本国語大辞典』)。日陰蔓(ヒカゲノカヅラ)を頭に巻いて、鬘(カヅラ)に

した。それで、頭の上に載せる髪飾りを「カゲ、陰、蔭、縵、冠」というようになった

と思われます。

要するに、「カゲ」=「鬘(カヅラ)」=「縵(カヅラ)」=「冠(カンムリ)」です。

B   飾磨郡安相里陰山前の「陰」を「かげ」と読む理由

飾磨郡安相里陰山前の「陰山」と神前郡蔭山里の「蔭山」は同じ山を指していると考

えられ、「陰山」=「蔭山」=「かげ山」と読まれます。陰山前には、諸本で誤読され

ている箇所もあるので、原文から読み解きたいと思います。 

原文:「品太天皇従但馬巡之時縁道不徴御削故号陰山前」

解説:徴は、「徴」の字に手偏がつきます。意味は「刺」と『大漢和辞典』にあります。

「御削」の削は名詞で、一番目の意味に書刀。竹簡に文字をきざみつける小刀とあり、

二番目は、刀の削=さや=鞘とのことです。ここでは、両方を意味し、刀の「さや」に

刺しておき、必要な時には髪に刺し、冠が落ちないように留める先の尖った箸のような

形の「笄、簪、カムサシ、加美加岐、かうがい」を意味していると思われます。

口語訳をしてみると、品太天皇が但馬より巡幸の時、道中、御刀の削に笄を刺してい

なかったので、頭上の冠を固定することができず、山の手前で冠(陰)が落ちてしまっ

た。よってその場所を陰山前(かげやまのさき)といいます。

 

5 品太天皇の「かげ」はどんな「かげ」?

私は以前、賀古郡で大帯日子命が求婚に行く時に身に付けていた弟縵(おとかづら)玉縵(たまかづら)だと書

いたことがあります。今回も、米を()く乙女たちの(かげ)玉縵(たまかづら)だと思います。

では、神前郡蔭山里や飾磨郡陰山前で品太天皇が身に付けていた「かげ=陰=蔭」も

玉縵でしょうか?やはり私は玉縵だと思います。その答えは『万葉集』や『日本書紀』

にあります。 

@   『万葉集』の玉縵と影 

巻二、一四九番「人はよし 思い止むとも 玉縵(たまかづら) (かげ)に見えつつ 忘れえぬかも」

これは天智天皇が崩御した時、倭大后が詠んだ歌です。玉縵は「かげ」の枕詞だと説

明されます。この歌での「影」は「面影」のような意味で使っていますが、本来「かげ」

は頭に戴く「陰、蔭、冠、縵」です。それは「玉を緒で連ねた頭の装飾品の玉縵」と同

意語でした。だから、「玉縵」は「かげ」の枕詞になっているのです。

A   『日本書紀』の「髻花」と「玉縵」 

推古天皇十一年十二月、始めて冠位を行い、冠るものなどを決めましたが、元日だけ

は髻花(うず)をつけてもよいと書いてあります。「髻花」は「木の葉や金銀の飾り物

を髪に挿したもの」というのが一般的な解説ですが、『新撰字鏡(享和本)』にはこう書

いてあります。「日本紀には髻花を宇須と云うが、釈日本紀では珠之玉冠という」。すな

わち、「髻花」=「珠之玉冠」=「玉縵」です。この記事から判断すると、推古天皇十

一年に冠位が決められる前は、宮廷の多くの人が「玉縵」を冠っていたと想像されます。

B   「髻花 うず」「玉蔭」を詠んだ『万葉集』 

巻十、三二二九番「五十()(くし)(たて) 神酒(みわ)(すゑ)(まつる) 神主部(はふりべ)() 雲聚(うずの)(たま)(かげ) (みれ)()(ともし)()」 

この歌の「雲聚(うずの)(たま)(かげ)」とは「玉縵(たまかづら)」と同じものと考えられますが、その形は、たく

さんの珠を長い緒に通したものでしょうか?それとも、神社の神宝に見られるような玉

冠でしょうか?ちなみに、「安康天皇記」で押木之玉縵と云われるものは、韓国ドラマ

で新羅の善徳女王が冠っている玉冠のようなものだといわれています。

 

三 まとめ 

 『播磨国風土記』揖保郡条の荻原里の解釈について、二点にまとめます。

この里の名は、萩原ではなく、荻原です。荻と萩を取り違えてはいけません。

「陰絶田」の「陰」は「玉縵」のことだと考えます。舂米女の陰を絶ったとする解釈

は誤りです。舂米女が贈られた冠を絶賛する話だったのです。

私は最近、「かげ」についていろいろ考えてきました。古墳の出土品などから見ても、

風土記に記される「かげ=陰=蔭=冠=縵」は、「玉を緒に連ねた玉縵」のことだと思

っています。

 

【引用・参考文献一覧】(五十音順・発行年順)

『文献史料』

『古事記』山口佳紀・神野志隆光校注訳(新編日本古典文学全集1)小学館 一九九七年  

『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注(ワイド版岩波文庫230234)岩波

書店 二〇〇三年

【風土記】

『風土記』秋本吉郎校注(日本古典文学大系2)岩波書店 一九五八年

『風土記』植垣節也校注・訳(新編日本古典文学全集5)小学館 一九九七年

『風土記』吉野裕訳(平凡社ライブラリー)平凡社 二〇〇〇年

『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著 山川出版社 二〇〇五年

『風土記』中村啓信監修訳注(角川ソフィア文庫)KADOKAWA 二〇一五年

『古事記道果本 播磨国風土記』(新天理図書館善本叢書 一)八木書店 二〇一六年

 

【万葉集】

『万葉集』鶴 久 森山隆編 おうふう 一九七二年

『西本願寺本万葉集』(普及版)主婦の友社編集 お茶の水図書館 おうふう編集協力

 一九九三年〜一九九六年

『万葉集』佐竹昭広 山田英雄 工藤力男 大谷雅夫 山崎福之校注(新日本古典文学大系1〜

4)岩波書店 一九九九年〜二〇〇三年

【その他史料】

『新撰字鏡(増訂版)』京都大学文学部国語学国文学研究所編 臨川書店 一九六七年

『類聚名義抄(観智院本)』(天理図書館善本叢書32 33 34)八木書店 一九七六年 

『和名類聚抄(二〇巻本)』正宗敦夫校訂 風間書房 一九七七年 

『和名類聚抄(高山寺本)』(新天理図書館善本叢書 第7巻)八木書店 二〇一七年

【辞典】

『大漢和辞典』諸橋轍次著 大修館書店 一九五五年〜一九六〇年

『日本国語大辞典』一〜二〇巻 日本大辞典刊行会編 小学館 一九七二〜一九七六年

『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎著 大修館書店 一九九二年

『漢辞海(第三版)』戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 二〇一一年

【一般書】』

『麹(こうじ)』一島英治著(ものと人間の文化史138)法政大学出版局 二〇〇七年

『井戸』秋田裕毅著(ものと人間の文化史150)法政大学出版局 二〇一〇年

「萩になった荻」岸本道昭著(『いひほ研究』第三号)いひほ学研究会

『万葉挽歌の心』上野誠著 角川学芸出版 二〇一二年

『酒』吉田元著(ものと人間の文化史172) 法政大学出版局 二〇一五年

『播磨国風土記一三〇〇年−記念シンポジウムの記録』楽浪の会 二〇一五年

『玉と玉釼』孝橋明子著 二〇一六年

 

      亥年に『播磨国風土記』の猪を考える

                             孝橋明子    上へ

写真は岸本道昭氏提供

1.はじめに                

  2019年の干支は「亥」です。 「亥」は十二支の第十二位で、日本では「い、ヰ」

と訓読みして、動物では「猪、ゐ、イノシシ」のことです。 しかし日本を除く漢字使用圏

では「亥」は、動物では「猪=豚」のことです。 中国や韓国では「亥年」は「豚年」を意

味します。 特に韓国では、「豚」の音読み「トン」は韓国固有語で「お金」を意味するので、

「豚年」は縁起の良い年とされているそうです。

 『播磨国風土記』には品太天皇が猪狩をする話が揖保郡、神前郡、託賀郡などにあり、「猪」

は「イノシシ」の事だとずっと思っていました。 でも、「猪」は「ブタ」のことかもしれな

いと思い始めました。

 そう考えるきっかけは2018年秋、第70回正倉院展で見た文書です。 新羅から輸入

された食器を包んでいた反故紙に書かれた文書で、解説は次のように書いてありました。

亥(安志加茂神社) 「文面や使用される文字から、新羅で書かれたものと考え    

られている。 (中略) 表には、動物の肉の管理状況が二件、

(中略)、片仮名の「キ」のように見える文字は、犭(けもの

へん)であり、イノシシのことを指している可能性が高いと

される。」 

 図録を買い求め、説明文を読み返していて、はっと気が付きました。 韓国では、「猪」=

「豚」です。 この新羅文書の肉は猪肉じゃなくて豚肉のことではないか。 「犭」=「猪」

で、それはイノシシではなく、ブタを指しているに違いありません。

 なぜ「犭」の字が正倉院展で目に留まったのか。それは『播磨国風土記』の揖保郡桑原条

に、「飼犭石」があるからです。原文はそう書いています。 しかし、広く一般に「銅牙石」

と改変されている語句です。 原文の「飼」は、どう見ても「銅」ではありません。 問題は

「牙」ですが、この字は「牙」よりも「犭」に近い字です。 新羅文書の解説では「犭」=

「猪」と考えられています。 風土記の原文と新羅文書の「犭」とを見比べながら、「飼犭石」

⇒「飼猪石」?と考えていて、そうだ!この語句の意味や読みを知るために、風土記に出て

くる、「飼」と「猪」の字を調べてみようと思い立ちました。

 

2.ゐかひの=猪飼野=ブタを飼う所

 『播磨国風土記』賀毛郡山田里に猪飼野(猪養野)の地名説話があります。 諸本で「猪」

は「ゐ」と読まれています。この訓読を参考にしながら、次に口語訳を記します。

 「山田里土中下 ()(かひ)() 山田と名付けたのは 人が山際に居たので里の名にした。 猪飼(ゐかひ)

と名付けたのは 難波(なにはの)高津(たかつの)(みや)御宇天皇(仁徳天皇)の世に 日向(ひむかの)肥人(くまひと)(九州日向の肥の国の人)

朝戸部君が天照大神の船に猪()を持ち参り来て進上し、飼う所を求め申し仰いだ。 そし

て此処を賜り、猪()を放し飼いにした。それで猪飼野と云う。」

 賀毛郡山田里は今の兵庫県小野市山田とされていますが、猪飼野という地名は残っていな

いようです。 猪飼野と聞いて思い浮かぶのは、大阪の環状線鶴橋駅近くの「猪飼野」です。

 ここには仁徳天皇を祀る「御幸森天神宮」があり、その境内には 王仁博士が仁徳天皇の

即位を祝して詠んだ歌「難波津に咲くやこの花〜」の碑が日本語とハングルで記されて建っ

ています。 猪飼野は猪甘津(ゐかひのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来し、 猪

甘津は日本書紀仁徳天皇十四年条にも記され、猪甘部(ゐかひべ)と呼ばれる官職を務める者

が住んでいたといいます。 猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する部民です。また、付

近は百済野と呼ばれ、百済からの渡来人が多く住んでいたそうです。

 猪甘部(ゐかひべ)は豚を飼育するので、猪飼野の「猪」はブタのことです。 先の『播磨

国風土記』賀毛郡山田里条の説話と、強く関わる話だと思います。

 ところで、万葉集にも「()養乃岡(かひのをか)」の地名が出てきます。 巻203 題詞に、但馬皇

女が亡くなられた後、穂積皇子が、雪の降る日に、遙かに御墓のある猪養の岡を望んで詠ん

だ歌とあり、「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」(訓読は岩波書店版)

吉隠(よなばり)は今の奈良県桜井市初瀬にあり、猪養の岡もその辺りだと云われています。

 但馬皇女の御墓があった猪飼之岡は、もしかして、但馬ゆかりの人がやって来て、そこで

猪養(ゐかひ)をしていた場所だったのではないでしょうか? 

 

安相里で猪飼をする但馬国朝来の人

 ここでは、但馬の人が播磨国にやって来て、猪飼(ゐかひ)をした話を述べたいと思います。 

え!そんな話が『播磨国風土記』にあるの?!と驚かれる方も多いかも知れませんが、飾磨

郡安相里には、「豢(ゐかひ)」の話が書いてあります。

 飾磨郡安相里では、「豢」の字の解釈が諸本で大きく異なっています。 山川出版社版は「豢」

を「ゐかひ」と原文の字を改変せずに読んでいますが、他の本では、「豢」を「蒙」や「剝」

などに変えております。 この地名説話を印影本(八木書店版)の原文を基に、文節ごとに原

文、口語訳、解説と記していきたいと思います。

 

ア) 天皇は削(カムサシ)を刺していなかった

原文 「安相里 (中略) 品太天皇従但馬巡之時 縁道不扌徴御削故号陰山前」

口語訳 安相里 (中略) 品太天皇が但馬より巡っていた時 縁道で()(かむさし)を刺していなか

った(だから御陰(みかげ)が落ちた)。 それで陰山前(かげやまのさき)と名付けました。

解説 なぜ御削を刺していなかったことが陰山前と名付けられる理由になったのかが理解

しにくいのですが、後の神前郡蔭山里の地名説話には、「品太天皇の御蔭が此の山に落ちたの

で蔭山といいます」とあります。 この「蔭山」と「陰山前」の「陰山」は同じ山と考えられます。

 そこで、「品太天皇が御削を刺していなかった」ので「品太天皇の御蔭が此の山に落ちた」と解釈しました。 

 次に、「削」=「笄(カムサシ)」と考えます。原文には「削」の異体字が書いてあり、『新

撰字鏡』には「削 刻木也 刀室也 笄也」とあります。「削」は冠()が落ちないように髪

に刺す笄(カムサシ)のことです。) 「扌徴」は『大漢和辞典』に「刺す」とあるので、「不

扌徴御削」は「御(かむさし)を刺しておられなかった」と訳しました。  

 

イ) 豢(ゐかひ)の名を被る

原文 「仍国造豊忍別命被豢名」

口語訳 よって、国造豊忍別命は 豢(ゐかひ)の名(姓=かばね)(こうむ)りました。

解説 国造の豊忍別命は品太天皇が但馬から播磨に巡行される時に、冠()が落ちないよう

に天皇の髪に御笄(カムサシ)をお刺し申し上げなくてはならないのに、うっかり忘れて、蔭

山里で天皇の御蔭が落ちてしまいました。 その罪により「豢」の姓(かばね)を被りました。

 「豢」はどんな意味でしょうか? 辞書を引いてみると、「豢 穀物によって豚や犬を飼育

する」(『漢辞海』) 「豢 養豕 カヘルヰノコ」(『類聚名義抄』) 「豢 穀養蓄」(『新撰

字鏡』) これらを総合すると「豢=穀物によって豚を飼育する=養豕=カヘルヰノコ=猪養

(ゐかひ)=猪飼(ゐかひ)」です。 即ち、豊忍別命は「穀物を用いて豚を飼う」役職の「猪甘

(ゐかひ)の姓(かばね)」を与えられたのです。

 

ウ) 但馬国造の豊忍別命 と 従者の阿朝尼命

原文 「尒時但馬国造。朝尼命申給依此赦罪」

口語訳 この時 但馬国造と阿胡尼命は(罪の償い策を)申し上げました。 これにより、

罪を赦されました。

解説  但馬国造=国造豊忍別命と私は考えます。 原文では但馬国造と朝尼命の間に「。」

が書かれ、その右横に小さく「」と書いてあります。 諸本では、但馬国造と阿朝尼命(阿

胡尼命)は同格で、但馬国造=阿胡尼命とされていますが、それは正しいでしょうか。 

 私は、但馬国造は阿胡尼命ではなく、豊忍別命と考えます。 阿胡尼命は神前郡多馳里に

登場する佐伯部等始祖「阿我乃(あがの)()」にそっくりです。阿我乃古は品太天皇が播磨を巡行され

た時の大御伴人(従者)で、天皇に(ただ)にお願いしたから多馳(ただ)里と名付けた土地をもらいます。

 阿胡尼命と阿我乃古は同一人物で、品太天皇が巡行された時の従者と考えられます。 但

馬から来て、播磨で冠()が落ちたので、出発地の但馬国造と、ずうっと付き従っていた阿

胡尼命の双方に咎があるとされました。 二人の責任者、但馬国造と阿胡尼命がどんな贖罪

の策を申し上げたのかは、次に明らかになります。 

 

エ) 塩代田を奉り、朝来の人が来て猪飼(ゐかひ) 

原文 「即奉塩代塩田廿千代 有名塩代田 飼但馬国朝来人到来居於此処 故号安相里」

口語訳 即ち、塩の代わりに塩田四十町歩を(たてまつ)りました。 それで、塩代田(しほてた)という名があ

ります。 (穀物を用いて豚を)飼うために但馬国朝来(あさこ)の人が来て此処に居ました。 だか

安相(あさこ)里と名付けました。

解説 贖罪として、塩の代わりに塩田を献上したので、そこは塩代田という名で呼ばれまし

た。 塩田を奉ったのは阿胡尼命でしょう。 阿胡尼命は播磨国飾磨郡の塩田廿千代を献上

することで罪を赦されました。 塩田廿千代の「代」=「頃(シロ)」=地積の単位で、廿

千代」は四十町歩ほどの広さです。海浜の広い土地を指していると思われます。

 これに似た話が日本書紀仁徳天皇四十年条にあります。【播磨佐伯直阿餓(あが)()()は仁徳天皇の

命令で雌鳥皇女を殺した折に皇女の手玉を奪っていた。その罪で天皇に殺されかけた時、自

分の土地を献じて死罪を赦された。 その土地を「玉の代わり」=「玉代(たまて)」と名付けた。】 

物名の「アガノコ」も、贖罪に土地を差し出す話もそっくりです。

 そして、但馬国造は豢(ゐかひ)の姓を被る代わりに、但馬国朝来の人を播磨国に派遣して

 猪飼(ゐかひ、豚を飼育)させることで、罪を赦されました。但馬国朝来(安佐古(あさこ))の人が来た

ので、安相(あさこ)里と名付けました。

 「安相」を「あさこ」と読むために、ここでは日本漢字音と韓国漢字音を使っています。

 「安an」を「あ」と読むのは日本漢字音でも韓国漢字音でも説明できます。 「相」を「さ

こ」と読むのは韓国漢字音で説明できます。 韓国漢字「相sang」の「ng」は鼻音を示し、

日本語の場合、子音で終わる時には、後に母音をつけて発音するので、「sang」は「さこ、

さご、さぐ、さが、さか」などの発音になります。 「安相」は「あさこ」、「あさご」、「あ

さぐ」などと読む説があります。

 さて、この安相里の比定地です。 私が住んでいる姫路市白浜町の辺りを指しているので

は?と思っています。 麻生山の東北部、姫路市西部の土山.今宿付近、四郷町坂本、上鈴、

中鈴、西見野付近など、諸説様々です。 白浜地域の海岸地帯がかって法隆寺領であったこ

とを示す資料が「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」で、山本三郎氏は「播磨の塩作り」につい

て述べられた時、安相里は市川河口の東山、八家辺りに比定されています。 安相里を白浜

辺りと明記する説はありませんが、本の名を「沙部」という点からも、海岸地帯と考えても

よいでしょう。 ここは海辺だし、私が子供の頃には塩田もあり、安相里にピッタリのとこ

ろです。 知人に、塩田で豚を飼うことはできるでしょうかと尋ねたら、もちろん餌さえや

れば飼えるとの事でした。 この安相(あさこ)里で、朝来(あさこ)からやってきた人が、豚の餌にする穀類を

栽培し、豚を飼い、塩作りもしていたのではないかと想像しています。 

 

4. 飼犭石⇒飼猪石=さゐ石

 いよいよ『播磨国風土記』揖保郡条の最終段、「飼犭石」と書いてある石について考えてみ

たいと思います。

揖保郡桑原里琴坂(たつの市揖西町子犬丸)の原文を検討したいと思います。

原文 「琴坂此処有飼犭石形似雙六之綵」

口語訳 琴坂 此処に「()()石」があります。 形は(すご)(ろく)の綵(サイ)に似ています。

琴坂のマスイシ解釈 諸本では飼犭石」は「銅牙石」と改変されています。

『古事類苑』金石部には「金牙石、銀牙石、銅牙石は皆形正四角形なり、

雙六のサイの如き」とあります。 だから「形は雙六の綵(サイ)に似ている」石を

「銅牙石」だと考える気持ちはよくわかります。 

しかし、原文をよく見ると「銅」ではなく「飼」です。 問題は「犭」の字ですが、正倉院文書

では、この字は「猪」の略体字とみなされています。 だから、飼犭石」を、私は「飼猪石」

と読むべきだと考えます。

 谷川健一氏は、正しく飼犭」と読んで、飼猪(かうい)が子犬(こいぬ)丸地名に変化したの

ではないかと記しています。

 では「飼猪石」とは何でしょうか? 意外にも「飼猪石」は、私が今まで調べてきた「猪

飼 ゐかひ」とは異なり、豚を飼うという意味ではなく、単に、読むための字として使って

いるようです。 安相里で述べたように、ここでも韓国漢字音と日本漢字音を使っています。

 「飼」は韓国漢字音読みで「sa」です。「猪」は日本漢字訓読みで「ゐ」です。

 だから「飼猪石」は「さゐ石」と読

琴坂むことができます。 これは「雙六のサイ」に似ているので、    

「サイ石」⇒「さゐ石」と名付けたと考えられます。

 「さゐ」と「サイ」では「ゐ」と「イ」の発音が異なるのでは?

という意見もあると思いますが、万葉集にはこんな歌があります。 巻十六3827

「一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六の(さえ)」(訓読は中西進 講談社版)

 「采」の原文は「佐叡」。 岩波書店版の注釈によると、〔「采」の漢字音は「佐以」である

が、奈良時代の日本語にはai という母音の連続する発音はなかったので、子音yをはさん

で発音してsaye となった。〕と書いてあります。 これに準じてsai「サイ」に子音w

はさんでsawi 「さゐ」となったと考えられます。 

 

5. 綵(サイ) だから飼猪石(さゐ石)

 「銅牙石」の語句が『延喜式』典薬寮 播磨国からたてまつる年料雑薬中に見える と岩

波書店版『播磨国風土記』の注釈にありました。 『延喜式』原典にあたると、播磨国の年

料雑薬として、薬草類に混じって「銅牙」と書いてあります。 これでは植物名なのか鉱物

名なのかはわかりません。 ちなみに「金牙」、「狼牙」という植物名があり、「金牙石」とい

う鉱物名があります。

 結論として、飼犭石」を「飼猪石」と改訂し、「飼猪石」は「さゐ石」と読むべきだと考

えます。 口語訳をするなら、「琴坂に()()石があります。 形は(すご)(ろく)の綵(サイ)に似ていま

す」となります。

 そして、現在も琴坂付近で採取される「マスイシ」こそ、この()()石」でしょう。形は

スゴロクのサイに似た正六面体の小さな石で、針鉄鉱の類と考えられます。

 『延喜式』の注釈で、「銅牙」は播磨国風土記(揖保郡)の記述を引き、形状、産出地から針

鉄鉱の類かと考えられる、とあります。 他の辞典類、例えば『日本国語大辞典』を引いて

も、「銅牙石」の説明に、この播磨国風土記の記述があります。 しかし、私は「銅牙石」と

読むことは誤りだと考えました。風土記の「飼犭石」の誤読から生まれた「銅牙石」が、あ

ちこちに我が物顔で出ているのを見ると、「銅牙石」じゃなくて「さゐ石」!と訂正したくなっ

てしまいます。

 

【引用・参考文献一覧】(五十音順・発行年順)

『文献史料』

『古事記』山口佳紀・神野志隆光校注訳(新編日本古典文学全集1)小学館 一九九七年       

『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注(ワイド版岩波文庫230234)岩波

書店 二〇〇三年  

『日本書紀』小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守 小学館 二〇一二年

【風土記】

『風土記』秋本吉郎校注(日本古典文学大系2)岩波書店 一九五八年

『風土記』植垣節也校注・訳(新編日本古典文学全集5)小学館 一九九七年

『風土記』吉野裕訳(平凡社ライブラリー)平凡社 二〇〇〇年

『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著 山川出版社 二〇〇五年

『風土記』中村啓信監修訳注(角川ソフィア文庫)KADOKAWA 二〇一五年

『古事記道果本 播磨国風土記』(新天理図書館善本叢書 一)八木書店 二〇一六年 

『新解 播磨国風土記揖保郡条』たつの市風土記ゼミナール たつの市教育委員会 二〇一六年 

【万葉集】

『万葉集』佐竹昭広 山田英雄 工藤力男 大谷雅夫 山崎福之校注(新日本古典文学大系1〜

4)岩波書店 一九九九年〜二〇〇三年

『万葉集』()() 中西進 全訳注 講談社文庫 二〇〇二年 

【その他史料】

『新撰字鏡(増訂版)』京都大学文学部国語学国文学研究所編 臨川書店 一九六七年 

『類聚名義抄(観智院本)』(天理図書館善本叢書32 33 34)八木書店 一九七六年 

『和名類聚抄(二〇巻本)』正宗敦夫校訂 風間書房 一九七七年 

『古事類苑』植物部二.金石部 吉川弘文館 一九八〇年

『和名類聚抄(高山寺本)』(新天理図書館善本叢書 第7巻)八木書店 二〇一七年 

『延喜式 下』(訳注日本史料)虎尾俊哉編 集英社 二〇一七年 

【辞典】

『大漢和辞典』諸橋轍次著 大修館書店 一九五五年〜一九六〇年

『日本国語大辞典』一〜二〇巻 日本大辞典刊行会編 小学館 一九七二〜一九七六年

『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎著 大修館書店 一九九二年

『漢辞海(第三版)』戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 二〇一一年

【一般書】

「播陽灘地域古代の歴史」寺脇弘光著『播陽灘の里』姫路市白浜東土地区画整理組合一九九〇年

『風土記の考古学』 櫃本誠一編 「播磨の塩作り」山本三郎著 同成社 二〇〇五年

「琴坂の銅牙石」岸本道昭著『いひほ研究』第2号 いひほ学研究会 二〇一〇年

『列島縦断 地名逍遥』谷山健一著 冨山房インターナショナル 二〇一〇年

『玉縵と玉釼』孝橋明子著 二〇一六年

『図録 第70回 正倉院展』 奈良国立博物館 二〇一八年